第6話:感情論の逆襲

地下15メートルの聖域は、いまや地獄の様相を呈していた。 黄金の心臓が打つ拍動は、空気そのものを物理的な「質量」へと変えていく。エドワードの肺は、吸い込むたびに細かな金粉で埋まるような錯覚に陥り、呼吸の一つ一つが錆びた鉄を飲み込むように重苦しい。


「よせ、エドワード。その紙切れ一枚で、世界の背骨を折るつもりか」


官僚――次官のポストにある男、ヘンリー・ヴォーンが歩み寄る。 彼の歩調には生身の人間が持つ「揺らぎ」がない。床を叩く靴音は、石と石がぶつかるような、硬質で、あまりにも冷酷な音だった。


「世界の背骨だと? 笑わせるな、ヴォーン。君たちが守っているのは、ただの巨大な寄生虫だ。ベネズエラの子供たちの小さな喉を締め上げ、その血を金に換えて啜る、醜悪な化け物だ!」


エドワードの叫びは、震えていた。だがそれは恐怖ではない。 怒りが、彼の皮膚の内側で沸騰していた。 目の前のヴォーンの顔を見て、エドワードは戦慄した。男の瞳には、もはや虹彩も瞳孔もない。そこにあるのは、磨き上げられた純金のような、底の知れない反射光だけだった。


「感情論か。反吐が出る」


ヴォーンが唇を歪める。その口内から漏れ出たのは、言葉ではなく「重圧」だった。 彼が言葉を発するたび、周囲の金の蔦が共鳴し、エドワードの肩に数トンもの不可視の重みがのしかかる。


「愛、憐れみ、正義。そんな安っぽい情緒で、数十億人の経済活動が支えられると思っているのか? この黄金の心臓が刻むリズムこそが、唯一の絶対的な『言語』だ。感情などという不確定要素は、システムを狂わせるノイズに過ぎない」


「ノイズだと……? 痛みを感じないお前には、あの子供たちの叫びが聞こえないのか!」


エドワードは抗った。 膝が笑い、床にめり込みそうになる。 ヴォーンから放たれるのは、もはや人間としての威圧感ではない。それは、宇宙の特異点が放つような、逃れがたい「金の重力」だった。


「聞こえんな。私には、利子の変動と、供給曲線の微細な震えしか聞こえない」


ヴォーンがさらに一歩踏み出す。 彼の頬の皮膚が剥がれ落ち、その下から覗いたのは肉ではなく、複雑に組み合わさった黄金の歯車と回路だった。


「私はこの『聖域』に身を捧げ、感情という無駄な機能を排した。私は、秩序そのものになったのだ。エドワード、お前も理解しているはずだ。その指を見ろ。お前もすでに、こちら側の住人になりかけている」


エドワードは己の右手を見た。 爪の間から黄金の液体が滲み、人差し指はもはや曲げることすら叶わない。 感覚が死んでいく。温かな血の通った「自分」が、冷徹な「物質」へと書き換えられていく恐怖。


「……確かに、感覚が消えていく。お前の言う通り、痛みを感じなくなれば、楽になれるのかもしれないな」


エドワードは低く笑った。 その笑い声には、ヴォーンの予想に反して、不屈の熱が宿っていた。


「だがな、ヴォーン。お前が『ノイズ』と切り捨てたその感情こそが、重力に逆らう唯一の力なんだよ!」


エドワードは、石化しかけた右手で、懐の羊皮紙を無理やり引き抜いた。 指の関節がミシミシと悲鳴を上げ、皮膚が裂けて金色の粉が舞う。激痛が走る。だが、その痛みが「自分はまだ人間だ」という証明だった。


「逆位の術式、展開……!」


エドワードが羊皮紙に刻まれた「絶望の記憶」を解き放った瞬間、金庫室の空気が爆発した。 それは物理的な爆発ではない。 略奪された大地、焼かれた村々、愛する者を奪われた人々の「嘆き」という名の負のエネルギーが、黄金の心臓に向けて逆流を始めたのだ。


「ぐ、あああああッ!」


無機質だったヴォーンの顔が、初めて歪んだ。 彼の黄金の瞳に、ひびが入る。


「何を……何をした! システムに、不純な感情を流し込むな! 計算が合わない……均衡が崩れる!」


「計算なんて知るか! これはお前たちが飲み込んできた『命』の総量だ! 測りきれると思うな!」


エドワードは重力の檻を食い破り、ヴォーンの胸ぐらを掴んだ。 男の体は冷たく、そして驚くほど重い。 エドワードの手のひらを通じて、ヴォーンの内部に潜む「黄金の虚無」が伝わってくる。この男は、秩序を守るために、自分という人間を完全に殺してしまったのだ。


「ヴォーン、お前は救世主なんかじゃない。ただの、壊れた計算機だ」


ドクンッ!


黄金の心臓が、これまでとは違う、苦しげな脈動を打った。 壁を侵食していた金の蔦が、まるで毒を盛られた蛇のようにのたうち回り、崩落を始める。 ヴォーンの体からも、不気味な火花が散り、彼の「黄金の仮面」が剥がれ落ちていく。


「秩序が……私の、愛した……完璧な、世界が……」


ヴォーンの声が、ノイズ混じりのラジオのように途切れる。 その瞳の奥に、一瞬だけ、かつて人間だった頃の絶望が過ったのをエドワードは見逃さなかった。


「世界は、お前の計算通りには動かない。……愛も、痛みも、すべてひっくるめて、泥臭く回っていくもんなんだ」


エドワードは、崩れ落ちるヴォーンを突き放し、黄金の心臓――その核へと、残された左手で古い杭を打ち込もうとした。


しかし、心臓は死に際の猛反発を見せる。 部屋全体が黄金の渦に巻き込まれ、エドワードの意識は白銀ならぬ「黄金の闇」へと飲み込まれていった。


静寂が戻ったとき、そこには何が残っているのか。 エドワードは、**「崩壊する地下からアーサーを抱えて脱出する」のか、それとも「心臓と刺し違え、ロンドンの全金融機能を停止させる最後の一撃を放つ」**のか。


あなたの選択が、次の物語を決定します。


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