第5話:地下15メートルの聖域

霧雨に煙るロンドンの街角、スレッドニードル通りにそびえ立つイングランド銀行は、まるで墓標のように静まり返っていた。「老婦人」と称されるこの巨大な要塞の内部へ、エドワード・シンプソンは再び足を踏み入れた。


数日前、彼に内部資料をリークしようとした若い職員、アーサーが失踪した。彼の最後の言葉は「地下が、食べられている」という錯乱に近い呟きだった。


「エドワード様、これ以上の立ち入りは禁じられています」


案内する年配の警備員、ウィリアムの背中は、まるで鉄板でも入っているかのように硬直していた。革靴が重厚な石造りの廊下に響くたび、エドワードの鼻腔を突くのは、古い紙の匂いではない。それは、雨に濡れた銅像を舐めた時のような、強烈で生臭い金属の味だった。


「ウィリアム、アーサーはどこへ行った? 彼はこの下の、第9金庫室へ向かったはずだ」


「……彼は『秩序』の一部になりました。それ以上は、どうか」


ウィリアムの声は、感情が削ぎ落とされた機械のようだった。地下15メートルへ向かうエレベーターが、胃の腑を揺さぶりながら下降していく。


エレベーターの扉が開いた瞬間、エドワードは膝をつきそうになった。


「なんだ、この熱気は……!」


地下特有のひんやりとした空気はない。代わりに、湿り気を帯びた、むせ返るような真鍮の匂いが肺を焼く。壁一面を覆っているのは、装飾ではない。それは、金色の「蔦」だった。


本来、整然と積み上げられているはずの金塊が、壁のコンクリートを割り、地層を侵食し、まるで意志を持つ粘菌のように這い回っている。


「見てください、エドワード。これが我々の守ってきたものの正体だ」


通路の先、厚さ1メートルはある円形の防護扉が開いていた。その中心で、数人の高級官僚たちが円陣を組み、虚ろな目で呪文のような数値を唱え続けていた。


「金利、為替、供給量、均衡、均衡、均衡……」


彼らの声は、狂気というよりは、巨大な怪物を宥める儀式のようだった。エドワードの視線の先で、金塊の山が「ドクン」と大きく跳ねた。


「心臓……?」


エドワードは、自分の心臓がその律動に同期していく恐怖に震えた。 金塊の表面は滑らかではない。それは、無数の人間の顔が苦悶に歪んだまま固まったかのような、凸凹とした有機的な質感を備えていた。金塊の脈動に合わせて、壁の蔦から黄金の雫が滴り、床を焼く。


「これが君たちの言う、国際経済の安定か!」


エドワードは叫んだ。目の前の光景に、ベネズエラの子供たちの姿が重なる。 あの子たちの命を、血を、この「黄金の心臓」がポンプのように吸い上げ、ロンドンの地下を太らせている。


「静かに」


官僚の一人、冷徹な眼差しをした男が振り返った。その頬には、すでに小さな黄金の鱗のような硬化が始まっている。


「これは怪物ではない。世界の重力だ。この地下15メートルにある『心臓』が拍動を止めれば、世界の信用は紙屑となり、文明は一晩で瓦解する。我々は略奪者ではない、この怪物を封じ込める生贄(いけにえ)の司祭なのだ」


「生贄だと? そのために、遠い国の子供たちが、生きながら金属に変えられているというのか!」


エドワードは、壁を這う金の蔦に手を伸ばした。 指先が触れた瞬間、凄まじい絶叫が脳内に流れ込んできた。それは言語ではない。何世紀にもわたって、この黄金のために命を落とした奴隷、鉱夫、そして今まさに乾いた大地で倒れゆく民たちの、数百万通りの「痛み」が、電流となって彼の神経を駆け抜けた。


「熱い……! 身体が、焼けるようだ!」


「触れるな!」ウィリアムがエドワードを突き飛ばした。


エドワードの指先は、すでに鈍い輝きを帯び始めていた。皮膚が硬質化し、神経の感覚が消えていく。その代わり、彼は見てしまった。この金色の血管が、地下深くで大西洋の海底を貫き、地球の裏側まで伸びている光景を。


「アーサーはどこだ……アーサーを返せ!」


「彼はあそこにいます」


官僚が指差した先。 金塊の山の一部として、半身が黄金に飲み込まれた若い男の姿があった。アーサーだった。彼はまだ生きていた。だが、その瞳はすでに琥珀色に染まり、口からは黄金の言葉ならぬ液体が溢れ出している。


「彼は名誉ある『基軸』となったのです。彼の命が、明日の市場の安定を支える」


「狂っている……」


エドワードは後ずさりした。 背後の壁からも、金の蔦が蛇のように鎌首をもたげ、彼の影を侵食しようとしている。 この部屋に漂うのは、腐敗した富の臭いだ。五感が悲鳴を上げている。耳には絶え間ない金属の擦れる音、目には眩暈を誘う黄金の残像、舌には血の混じった銅の味。


「これは経済じゃない。ただの大規模な殺戮だ」


エドワードは、懐に隠し持っていた古文書――先代の守護者が記した、黄金の脈動を止めるための「逆位の術式」が刻まれた羊皮紙を強く握りしめた。


「エドワード、無駄だ。止めてみろ。この拍動が止まれば、ロンドンも、君の愛する世界も、すべてが暗転するぞ」


官僚たちが嘲笑う。 黄金の心臓が、再び大きく「ドクン」と脈打った。その衝撃波で、エドワードの視界が黄金色に染まる。


「それでも……あの子たちの未来が、金塊の重みで押しつぶされるよりはマシだ!」


エドワードは、自らの指が石化していく恐怖を、怒りで塗りつぶした。 彼は、拍動する心臓の「核」へと、よろめきながら一歩を踏み出した。


黄金の心臓に手が届こうとしたその時、室内に警報が鳴り響きました。エドワードの決死の行動は、この「偽りの秩序」を破壊できるのでしょうか? **「術式を発動し、一時的に金塊を休眠させるが、代償として自らも追われる身となる」か、あるいは「アーサーを救い出すことを優先し、地下からの脱出を図る」**か。どちらの道を選びますか?

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