第3話:カラカスの呪縛
ロンドンの雨は、火を消した後の灰の味がする。
私は自宅の狭い書斎で、机の引き出しの奥から一編みの革袋を取り出した。中から転がり出たのは、一枚の古びた金貨だ。表面は摩耗し、刻まれた紋章も定かではない。だが、それを指先で転がした瞬間、指紋の隙間から熱い砂の粒子が入り込んでくるような錯覚に襲われた。
五年前、ベネズエラの首都カラカス。 街は、極彩色の絶望に塗り潰されていた。
照りつける太陽は、人々の喉を焼き、希望を干からびさせていた。市場の片隅で、例の老女が私にこの金貨を握らせた時の感触が、今も掌に残っている。 「これを持って行って、ジャーナリストさん」 彼女の声は、乾いた風に吹かれる枯れ葉のようだった。 「これは、私の祖父がそのまた祖父から受け継いだもの。私たちの国の、本当の血の一部よ。ここにあると、ただの空腹に変わってしまう。でも、あなたの国に行けば……何かに、変わるかもしれないから」
その金貨が今、私の机の上で、微かに震えている。
「……またか」
最初は心臓の鼓動だと思った。だが違う。金貨は、私の鼓動とは異なるリズムで、ドク、ドクと脈打っていた。そして、窓の外――イングランド銀行がある方角を指し示すように、磁石のごとく机の上を滑り始める。
その時、背後の空気が、ふっと密度を増した。
「あまり、その『声』を聴きすぎないほうがいい」
心臓が跳ねた。振り返ると、開けた覚えのないドアの傍らに、一人の男が立っていた。 濃紺のトレンチコートを纏い、縁の細い眼鏡をかけた、あまりに没個性的な男。だが、彼が纏う空気は、ロンドンの霧よりも深く、冷たく沈んでいた。
「……誰だ。不法侵入で警察を呼ぶぞ」
「警察? 彼らは石ころの重さは測れますが、魂の重さは測れない。呼ぶだけ無駄ですよ、浅倉記者」
男は音もなく歩み寄り、私の机の上の金貨を覗き込んだ。
「いい輝きだ。ベネズエラの民衆が、最後の最後に手放さなかった『執着』。それがロンドンの地下にある三万一千枚の金塊と共鳴を始めている。……我々にとっては、不快なノイズでしかないのですがね」
「我々?」
「ロンドン錬金術協会」
男は名刺も出さず、ただその名を口にした。錬金術。中世の絵空事のような響きが、この現代的な書斎にはひどく不釣り合いだった。
「勘違いしないでいただきたい。我々は鉛を金に変えるような、古臭い手品師ではない。我々の仕事は、この街に集まった膨大な『黄金』を、世界のバランスを保つための『重錘(じゅうすい)』として管理することだ」
「重錘だと?」
私は椅子を蹴立てて立ち上がった。カラカスのあの暑さ、埃っぽさ、そして老女の軽い手が、怒りとなって脳を焼いた。
「あれは、あの国の人々の資産だ。彼らが飢えを凌ぐための、命の対価だぞ。それを重りだと? 政治の道具にするだけじゃ飽き足らず、オカルトの道具にしているというのか!」
「政治? 経済?」
男は、哀れな子供を見るような目で私を見た。
「浅倉さん。あなたは、なぜロンドンがこれほどの繁栄を維持できていると思いますか? なぜ世界中の富が、この湿った島国に吸い寄せられるのか。それは、この街の下に『世界で最も重い呪い』が埋まっているからです。金塊という名の、人類の欲望の結晶がね」
彼は窓の外、霧に沈む街を指差した。
「あそこに積まれた金は、ただの通貨ではない。人々の情熱、憎しみ、祈り……それらを固定し、地面に縫い止めるための『重石』なのです。あれがあるからこそ、世界の秩序は変動を抑えられ、この街は不動の地位を保てる。ベネズエラに金を返せば、その重石が外れる。世界は軽くなり、秩序は風に舞う紙切れのように崩壊するでしょう。……それでも、あなたは『正義』のために返せと言うのですか?」
「ふざけるな……」
私は金貨を強く握りしめた。金貨は今や、火傷しそうなほどに熱を帯びている。
「その『秩序』とやらのために、あのアパートのトーマスは犠牲になったのか? 彼は金が溶ける夢を見て、黄金の足跡を残して消えた。それも、お前たちの言うバランスの結果なのか!」
「彼は、感受性が高すぎた」
男の眼鏡の奥で、無機質な光が走った。
「黄金の声を聴きすぎれば、人間はその質量に耐えきれず、自身が黄金の一部に取り込まれてしまう。……あなたも、危ういところにいる。その金貨を、我々に預けなさい。それは、ロンドンの地下にある『王』を呼び覚ます鍵になりかねない」
男が手を伸ばした。その指先は死人のように白く、先端が微かに金属的な光沢を帯びているように見えた。
「断る」
私は金貨をポケットに捻じ込み、男を突き飛ばすようにして部屋を飛び出した。 背後で男の静かな声が追いかけてくる。
「逃げられませんよ。あなたはもう、黄金の重さを知ってしまった。……ベネズエラの太陽が、ロンドンの霧を焼き尽くすまで、その共鳴は止まらない」
アパートの階段を駆け下りると、外は激しい雷雨になっていた。 叩きつける雨が、肌を刺す。ポケットの中の金貨が、心臓のリズムに合わせて激しく脈動している。
ドクン。ドクン。
それは、もはや金貨の震えではなかった。 ロンドンの地下深く、幾重もの防壁に守られたあの金庫の中から、何かが私を呼んでいる。
『返して……熱を、返して……』
カラカスの市場で聞いた、あの渇いた叫びが、雨音に混じってロンドンの空に響き渡る。 私は、雨の中を走り出した。行く先は決まっていた。 あの、巨大な石の墓標。 世界を繋ぎ止め、世界を殺し続けている、イングランド銀行の正面玄関へ。
私の靴底が、水溜まりを叩く。 その瞬間、飛び散った泥水の中に、一瞬だけ、黄金の火花が散ったのを私は見逃さなかった。
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