第2話:溶ける夢の正体
翌朝になっても、ロンドンの空は灰色を洗うことを忘れていた。
カフェの窓ガラスを叩く雨音は、どこか粘り気を帯びている。私は、昨日地下金庫の前で怯えていたあの若い職員の顔が忘れられずにいた。名はトーマス。イングランド銀行に勤めてまだ半年の、清潔な青白い肌をした青年だ。
「……失踪?」
馴染みの情報屋から届いた短いメールを読み返し、私はコーヒーを一口啜った。安物の豆の苦味が、ざらついた舌に残る。彼は今朝、一度もタイムカードを切っていない。独身寮の自室にも、馴染みのパブにも、彼の姿はなかった。
私は嫌な予感を拭えず、彼の住む安アパートへと向かった。ロンドン東部、古びたレンガが湿気を吸って黒ずんだ一角。大家を言いくるめて鍵を開けさせ、部屋に足を踏み入れた瞬間、私は鼻を突く異様な臭いに顔をしかめた。
それは、金属が焼けるような、あるいは古い血が錆びたような、鉄臭い熱気だった。
「トーマス?」
返事はない。狭い部屋は驚くほど整頓されていたが、ベッドのシーツだけが無残に引き裂かれていた。まるで、眠っている間に何かに足首を掴まれ、必死に抵抗したかのように。
机の上には、一冊の日記が開かれたまま置かれていた。私は躊躇いながらも、そのページを捲る。
『12月10日。またあの夢を見た。 金が溶ける。金庫の床に積み上げられた金塊が、バターのように滑らかに溶け出し、重い液体の波となって押し寄せてくる。それは熱くない。むしろ、凍りつくほど冷たい。 液体は私の靴に絡みつき、ズボンの裾を登ってくる。必死に逃げようとしても、足が重い。まるで、数千人の手が泥の中から伸びてきて、私の足首を掴んでいるみたいだ。 彼らは言う。「返せ、温かさを返せ」と。』
文字は後半に行くに従って震え、インクが滲んでいた。
「……汚染だ」
私は呟いた。記者として多くの怪奇的な事件を追ってきたが、これは知っている。強い残留思念を持つ物質に長く触れすぎた人間が陥る、精神の浸食だ。
その時、カーテンの隙間から差し込んだ僅かな光が、床の隅で不自然に反射した。
「なんだ、これは……」
私は膝をつき、目を凝らした。 そこには、靴の跡があった。入り口から窓に向かって、点々と続く足跡。 だが、それは泥でも埃でもない。物理的な実体を持たないはずの「輝き」だった。
フローリングの木目に染み込むように、鈍い金色の光が足跡の形を残している。指で触れてみても、何もつかない。湿り気もなければ、凹凸もない。ただ、視覚だけがそこに「黄金」が存在すると主張している。
「物理的には存在しない、黄金の足跡……」
私はその足跡を辿り、窓辺に立った。足跡は窓枠を越え、外の壁へと続いていた。重力など無視して、垂直な壁を歩いていったかのように。
「誰かいるの?」
背後で声がした。振り返ると、そこにはトーマスの隣室に住むという、身なりの貧しい青年が立っていた。
「あんた、トーマスの連れか? あいつ、昨日の夜、ひどい様子だったぜ」
「ひどい様子? 何か言っていましたか」
青年は怯えたように自分の腕をさすった。
「夜中に廊下でうずくまっててよ。ブツブツ言ってるんだ。『重すぎる、もう持ちきれない。彼らの人生が、全部俺の足にくっついてくるんだ』って。 助けてやろうと思って肩を貸したんだが、あいつの体、氷みたいに冷たかった。それなのに……」
「それなのに?」
「触れた場所が、焼けるように熱かったんだ。まるで、熱した金貨を直接肌に押し付けられたみたいに。ほら見ろよ」
青年が袖を捲ると、そこには指の形の痕がついていた。痣ではない。それは、皮膚が薄く黄金色に変色し、微かな光を放っている硬質な痕だった。
「……彼は、どこへ行ったか分かりますか」
「窓から飛び出したんだ。……いや、飛び出したんじゃない。まるで空中に階段があるみたいに、一歩ずつ、重そうに、夜の闇に登っていったんだ。ロンドンの霧の中に溶けて消えちまったよ」
青年の声は震えていた。
私は再び、床の黄金の足跡に目を落とした。 これはただの失踪ではない。イングランド銀行の地下で、何世紀もかけて蓄積された「奪われた者たちの重み」が、ついに器を見つけて溢れ出したのだ。
トーマスは、あの地下金庫の案内役だった。毎日、あの重圧に晒され、扉の向こうから漏れ出す呻きを無意識に浴び続けていた。
『夢の中で、金が溶けるんです。床に流れて、靴に絡みついて、動けなくなる』
昨日、彼が苦笑いしながら言った言葉が、呪いのように耳元で蘇る。 彼は動けなくなったのではない。重すぎる呪いを背負わされ、その重みの中心へと引きずり込まれたのだ。
私はノートを閉じ、部屋を出た。廊下ですれ違う住人たちの、疲れ果てた、けれどどこか「軽い」足取り。彼らは知らない。自分たちの頭上で、国家という巨大な怪物が、他人の絶望を金に変えて溜め込んでいることを。
外に出ると、雨が激しさを増していた。 傘を打つ雨音が、地下金庫で聞いたあの啜り泣きに似て聞こえる。
私はスマートフォンを取り出し、録音データを確認した。昨日、銀行の廊下で密かに回していたレコーダー。そこには、職員の声に混じって、風の音とは到底思えない、少女の笑い声と、それに続く長い長い溜息が刻まれていた。
「……次は、私の番かもしれないな」
自分の革靴の底を見る。 まだ、黄金の光は見えない。だが、心臓の奥には、昨日よりずっと重い「何か」が居座っているのを感じた。
私は灰色の霧を見上げた。 トーマスが登っていったという空。そこには今、何万、何億という人々の「返されなかった人生」が、雲となって渦巻いているはずだ。
「政治と金は、切り離せない……か」
担当官の冷徹な声が、雨音に混じる。 切り離せないのは政治ではない。金と、それを生み出すために削られた命だ。
私は、黄金の足跡が向かっている方向へ歩き出した。 その先にあるのは、テムズ川か。それとも、再びあの忌まわしい銀行の地下か。 靴底が石畳を叩く音が、今日はやけに重く、鈍く響いていた。
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