第1話:湿った灰色の街

ロンドンの空は、まるで洗いたての羊毛を汚水に浸したような、重く湿った灰色をしていた。


テムズ川から立ち上る冷たい霧が、外套の襟元をすり抜け、肌を直接撫でていく。吐き出す息は白く濁り、石畳に染み込んだ饐(す)えた匂いが、革靴の底を通じて骨の髄まで冷やした。イングランド銀行の正面玄関。威圧的なコリント式の柱を見上げた瞬間、私は無意識に肩をすくめた。ここには金がある。だが、それはジュエリーショップのショーケースで輝くような、軽薄な金属ではない。


国家の誇りと、剥き出しの憎しみと、そして救われなかった数百万人の悲鳴が、物理的な質量となって積み上げられている場所だ。


「……まだ、返さないんですか」


受付の金属探知機を通る際、私は隣に立つ警備員に、なかば独り言のように呟いた。彼は答えなかった。彫像のように動かず、ただ視線をわずかに逸らし、無機質な機械のランプを見つめている。その無表情は、この街の冬よりもずっと冷たく、指先の感覚を奪っていくようだった。


案内された地下の会議室は、一転して乾燥していた。古い絨毯が吸い込んだ埃と、過剰な暖房が混じり合った、喉の奥がチリチリとするような匂い。壁にかかった大振りな時計の秒針が、「チッ、チッ」とやけに大きな音を立てて時を刻んでいる。


「お待たせしました」


入ってきたのは、仕立ての良いスーツを纏った中年の担当官だった。彼は私の挨拶を無視するように椅子を引き、手元の資料に目を落とした。


「さて、本日の取材目的は『ベネズエラ政府による金塊返還要求に対する英国側の公式見解』ということで相違ありませんね、浅倉記者」


「はい。現在、カラカスでは深刻な医療品不足と食糧難が続いています。彼らの資産である金塊を凍結し続けることは、人道的な観点から見て限界ではないか、という声が上がっています」


私の言葉に、担当官は冷笑さえ浮かべなかった。彼は傍らのティーカップを手に取った。立ち上る紅茶の湯気が、彼の眼鏡を一瞬だけ白く曇らせる。


「返還はしない。それが現時点での、そしておそらく将来にわたる我々の答えです」


「それは、金塊の所有権に法的な瑕疵(かし)があるからですか? それとも、ただの政治的な圧力ですか?」


私は身を乗り出した。ペンを持つ指先に力が入り、ノートの紙がわずかに撓む。


「政治と金は、昔から切り離せない。あなたはロンドンに何年住んでいるんですか? 幼稚な質問は控えていただきたい」


彼の声は低く、そして乾いていた。その響きが、私の喉の奥に棘のように引っかかる。脳裏に、かつて取材したカラカスの情景が蘇った。アスファルトが熱で歪み、ゴミの焼ける臭いが漂う市場。そこで出会った老女。彼女の手は、驚くほど軽かった。使い古した紙袋よりも、乾燥した枯れ葉よりも。


『薬が買えないの。娘の抗生物質さえ。でも、ロンドンには私たちの金があるんでしょう? 私たちの命を固めた塊があるんでしょう?』


老女の声が、今、この閉塞感に満ちた会議室に反響している気がした。だが、目の前の男は平然とスコーンを口に運んでいる。


「私たちは民主主義の正統性を守る立場にある。不当な政権に金を渡せば、それは武器に変わり、さらなる弾圧を生む。我々はベネズエラの民衆を救うために、この金を預かっているのです」


「『預かっている』? 目の前で餓死していく人々を放置することが、あなたの言う『救済』ですか?」


「感情論では、国際秩序は保てません」


隣に座っていた別の官僚が、事務的に書類を揃えた。紙が擦れる「シュッ」という音が、まるでナイフで空気を切り裂くように鋭く響く。


「秩序、ですか。その言葉は本当に便利ですね。正義の仮面を被せて、遠い国の人間を見捨てることができる」


「……本日の取材はここまでだ。出口まで案内させよう」


担当官は不快そうに視線を逸らした。会話は終わった。彼らの世界において、私の言葉は価値を持たない雑音に過ぎないのだ。


会議室を出ると、案内役の若い職員が待っていた。彼はどこか落ち着かない様子で、私の視線を避けるように先を歩く。エレベーターに向かう途中、私はふと立ち止まった。


そこは、地下金庫へと続く厚い防壁の扉の前だった。


「……?」


耳の奥で、何かが鳴った。 最初は、古い配管が軋む音だと思った。あるいは、地下鉄が遠くを通り過ぎる振動の残響。だが、違う。それはもっと湿っていて、粘り気のある……音だった。


(……助けて……)


心臓が跳ねた。


(……暗い、寒い、お腹が空いたよ……)


それは、一人や二人の声ではない。何千、何万という人々の呻きが、幾重にも重なり合い、地層のように積み重なった慟哭。


「おい、君。今の音が聞こえたか?」


私は若い職員の肩を掴んだ。彼はビクッとして足を止め、怯えたような目で私を見た。


「音? 何のことですか。ここは防音設備も万全です。何も聞こえるはずがありません」


「聞こえるだろう! 泣いているんだ。この扉の向こうで、誰かが……いや、大勢の人間が泣いている。搾取され、ネグレクトされ、無視された人たちの声だ。この金塊に染み付いているんだよ!」


私の叫びは、無機質な廊下に空虚に響いた。職員は顔を青くして私の手を振り払った。


「変なことを言わないでください。……これだから記者は。さあ、早く出てください」


彼は逃げるように歩き出した。だが、私にははっきりと聞こえていた。金庫の奥に積まれた四角い金属の塊が、呼吸をしている。それはベネズエラの熱い風を知っている人々の絶望だ。彼らの未来を、健康を、そして子供たちの笑い声を固めて、イングランドの冷たい土の下に埋め殺しているのだ。


外へ出ると、ロンドンの空はさらに低く垂れ込めていた。


石畳の冷たさが革靴を突き抜け、足首を掴んで離さない。私は震える手でスマートフォンを取り出し、カラカスの知人にメッセージを送る。


『こっちは、吐き気がするほど寒い。そっちはどうだ?』


数分後、震動と共に返信が届いた。


『また停電だ。街は真っ暗。でも、隣の家の子供たちが、暗闇の中で歌を歌って笑ってるよ。』


その短い文面を読んだ瞬間、胸の奥が鋭くきしんだ。笑いと、絶望。光と、黄金。それらが歪な形で繋がっているこの世界の構造が、ひどく恐ろしかった。


「めちゃくちゃだな……」


吐き出した白い息は、冷たい霧の中に一瞬で溶けて消えた。 消えてしまうからこそ、私は書かなければならない。あの地下で聞いた、黄金の沈黙の中に隠された、血を吐くような叫びの正体を。


私は外套の襟を立て、灰色の街へと歩き出した。背後にあるイングランド銀行の石造りの建物は、巨大な墓標のように、ただ黙ってそこに立っていた。


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