大人の天気

Algo Lighter アルゴライター

雨の鍵

大人になってから、天気は「空」じゃなくて「装置」になった気がする。

ポケットの中で震えるスマホが、空の代わりに先に喋る。「降水確率80%」。アイコンの小さな傘が、今日という一日の段取りに釘を打つ。予定表の上に、雨が落ちてくる。


子どもの頃の雨は、いつも匂いから始まっていた。

名前のつけにくい匂い。湿気でも土でもなく、でも確かに「これから濡れる」匂い。鼻の奥にふっと触れて、数時間後に本当に降る。あれは、予報じゃない。世界の前触れだった。


理屈を知ったのはずっとあとだ。

雨の匂いは「ペトリコール」だけじゃ説明が足りない、という話。乾いた地面に積もっていた油や植物の成分が雨で立ち上がる匂いもあれば、土の中の放線菌がつくるゲオスミンが、雨粒の衝撃で空気に舞うこともある。街なら排気ガスやホコリの混ざり方で、匂いは別の顔になる——そんな説明を読んで、なるほどと思った。

でも本当は、説明が来る前に、雨はいつも来ていた。


雨が降ると世界は「濡れる」だけじゃなく、「変身」した。

水たまりは地図になり、長靴は鎧になり、傘は剣にも盾にもなった。窓ガラスを叩く粒の音が、家を小さな船にしてくれる。濡れて叱られることさえ、冒険の終わりに待っている“勇者への説教”みたいで、少し誇らしかった。


そのころ、天気は出来事だった。

晴れは「行ける日」で、遠くまで行ける体の軽さだった。公園の鉄棒が熱くて、手のひらが少し痛くて、帰り道の影が伸びる。家に入った瞬間の冷たい床が、太陽の余熱をひやっと受け止めてくれる。太陽は頭上じゃなく、皮膚にいた。


大人になると、それが逆転する。

雨は匂いの前に数字になって、音の前に遅延になって、濡れる前に「対策」になる。靴下の予備、折りたたみ傘の所在、濡れたカバンをどう乾かすか。晴れは眩しさより先に紫外線になって、風より先に洗濯指数になって、夕焼けより先に帰宅ラッシュになる。

空を見ると、雲の隙間から青だけじゃなく、用事まで覗いてくる。


——都会には土が少ないせいだろうか。

それとも、感性の側が薄くなったのだろうか。最近、雨の匂いを感じにくい。あの“前触れ”が来ないまま降る日が増えた。鼻が鈍くなったのか、街が別の匂いで埋まっているのか、どちらでもいい。どちらも正しい気がする。

とにかく、雨は以前ほど物語の始まりじゃない。予定の邪魔者として現れて、処理されて終わる。


それが、ある日の夕方だった。


改札を抜けた瞬間、空がふっと暗くなった。

明るさが一段落ちるあの感じ。映画のスクリーンが切り替わるみたいに、世界の色が少し変わる。風が、ひとさじだけ冷たくなる。

私はスマホを見た。通知は来ていない。降水確率の数字も出ていない。

——嫌な予感、と呼ぶには静かすぎる何かが、皮膚に触れた。


次の瞬間、雨が落ちてきた。

粒が大きい。音が太い。地面が一気に斑点模様になる。アスファルトが涙をためるのが、目に見える速さで進む。車のタイヤが水を切る音が急に大きくなり、道路が薄い川みたいになる。傘はない。走っても間に合わない。

私はコンビニの軒先に滑り込んだ。


軒先の下には、同じように逃げ込んできた人が何人かいた。スーツの肩が濡れて、誰かが小さく舌打ちをする。レジ袋を頭にかぶせる人。腕時計を覗いて眉をしかめる人。

そういう“いつもの光景”のはずなのに、その日だけ、私は妙に静かになった。


雨の匂いがしたのだ。

はっきりと。懐かしく、土っぽく、それでいて甘い。都会の匂いの層を一枚めくった奥から、子ども時代の雨が顔を出す。

鼻の奥が勝手に「覚えてる」と言った。私はそれに驚いて、少し笑いそうになった。


雨粒が白く跳ねるのを見ていると、頭の中の付箋が一枚ずつ剥がれていった。


「明日は早い」——剥がれる。

「返信」——剥がれる。

「遅れ」——剥がれる。


代わりに戻ってくるものがある。匂い。音。光。時間の粘度。

雨が降るって、こんなに“今”を作ることだったのか、と身体が思い出す。大人は未来の処理に追われるけれど、雨は強引に現在形を押しつけてくる。段取りが負ける。負けたのに、なぜか嬉しい。空が勝手に決めたルールに、こちらが従うしかない瞬間。

そのときだけ、世界がこちらを使ってくる。


ふと、隣の小学生くらいの子が、黄色い長靴で水たまりを覗き込んでいるのが見えた。

親に手を引かれながらも、視線は水面に吸い寄せられている。水たまりは、確かに地図みたいに光っていた。車のライトが反射して、細い川のように流れて見える。

子どもは終わりを知らないふりが上手で、大人は終わりの数を数えるのが上手だ。でも、雨の前では両方同じ立場になる。濡れる。待つ。見る。

私は、その子が水たまりに一歩踏み込むのを、心のどこかで期待していた。もちろん親は止めるだろう。それでも、期待はしてしまう。


案の定、子どもは足を出しかけて、親の手がぎゅっと強くなる。

子どもは悔しそうに唇を尖らせ、それから、こっそり笑った。

“やった、雨だ”と、声にしない声で言うみたいに。


その笑いを見て、胸の奥がちいさく光った。

私の中にも、水たまりがある。踏みたくなる。跳ねたくなる。でも、大人の私はたいてい、それを確認して終わる。「濡れるからやめよう」「時間がない」「靴がダメになる」。

合理的で、正しくて、つまらない。


雨はしばらくして小降りになり、コンビニの軒先は一斉にほどけた。みんなそれぞれの用事へ戻っていく。

私は一歩外に出て、空を見上げた。雲はまだ厚いのに、どこかで光が差し込んでいて、雨の糸が銀色に見えた。

その光を見た瞬間、子どもの頃の自分が、ひょいと顔を出す気がした。しゃがみ込んでいた大人の背中の陰から。


「覚えてる?」と、目で言う。

私は少しだけ頷く。

雨の匂いを感じたこと。世界が変身したこと。怒られる結末まで含めて、ぜんぶひとつの物語だったこと。


家に着くころには、靴下は少し湿っていた。バッグの角も濡れていた。面倒はちゃんと残っている。

でも不思議と、嫌じゃなかった。


それ以来、天気予報を見る前に、まず空を見るようにしている。

数字に変換される前の天気を、ほんの数秒でもいいからそのまま受け取る。雲の速さ。光の角度。匂い。音。今日の世界の機嫌。


都会は土が少ない。匂いは薄い。通知は早い。

それでも、たまに雨の匂いがする。

そのとき私は、枷をひとつ忘れる。忘れたことに気づいて、どこか嬉しくなる。

時間が戻るんじゃない。こちらの感覚が戻る。世界のほうが、少しだけ“昔のサイズ”になる。


子どもの頃の私は、空を見ていた。

大人の私は、空を確認している。

でも、たまに“見ている”が勝つ。

その瞬間、胸の奥で、小さな水たまりがきらっと光る。踏みたくなる。跳ねたくなる。

大人のまま、ちょっとだけ子どもに戻って、また歩き出せる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大人の天気 Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画