第2話 召喚
世界は、白黒のサイレント映画になった。
灰色の部屋に立ち、机に手を伸ばす。
指先は、抵抗もなくすり抜けた。
空気を掴むみたいに。
机も、椅子も、壁の時計も。
すべてが、触れられない幻影。
――虚曜日。
美雪は、ここで百二十八日を過ごした。
どうやって?
何にも触れないのに、どうやって勉強して、
どうやってノートを書いて――
「ねえ、新人」
思考を遮る、軽やかな声。
振り向くと、
オレンジ色のスニーカーの少女が、ドア口に立っていた。
首をかしげると、ポニーテールが肩に落ちる。
「なにしてんの?」
「……何にも、触れなくて」
「そりゃそうだよ。最初はみんなそう」
彼女は部屋に入ってくる。
足音は、はっきりと「実体」を持っていた。
この静寂の中で、やけに鮮明だ。
「早乙女霞。高二。あんたは?」
「瀬戸健太。高三……
『最初はみんなそう』って?」
「うん」
霞は頷き、
次の瞬間、奇妙な動きをした。
右手を、自分の左胸に当てる。
目を閉じて、小さく言った。
「――時を証に。
今この瞬間を、私に本物にして」
その瞬間、
彼女の身体が、淡く光った。
そして、机の上のペンを――
掴んだ。
確かに、掴んだ。
俺は、目を見開く。
「これが『接触許可』」
霞はペンを俺に差し出す。
だが、俺の手は、やっぱりすり抜けた。
「虚曜日に『お願い』しないと、物に触れない。
でも覚えといて――使うたび、存在侵食は進むから」
「……どうやって?」
「今みたいに。心臓に手を当てて、誓う。
誓いの言葉は人それぞれ。
虚曜日の心を動かす言葉を、自分で見つけるの」
俺も、右手を胸に当てた。
――何を言えばいい?
この灰白の世界に、何が届く?
美雪を、思い出す。
ノートに綴られていた、あの日々。
「……失った人を取り戻すために」
低く、言葉を絞り出す。
「現実に触れる資格を、ください」
――反応は、ない。
「甘いね」
霞が首を振る。
「虚曜日は、心を見抜く。
本当に大事なこと、言いなよ」
深く、息を吸う。
そして――
心の奥底にあった言葉を、吐き出した。
「妹が過ごした百二十八日を、理解したい。
……彼女が、俺のために払った代価を、知りたい」
掌が、かすかに温かくなる。
胸から、淡い光が広がった。
弱々しいが、確かにそこにある光。
恐る恐る、手を伸ばす。
――触れた。
プラスチックの、ひんやりした感触。
俺は、ペンを握りしめた。
「成功」
霞は、少しだけ笑った。
「これで虚曜日では、なんでもできる。
勉強も、訓練も、物に触ることも。
……代価は、ちゃんと溜まってくけどね」
「……それでも」
俺は、即答した。
「――価値はある」
「……誤解しないで」
早乙女は視線を逸らしたまま、低く言った。
「別に、あなただから手を貸すわけじゃない」
その言葉に、俺は少しだけ面食らう。
「もし、ここで全部投げ出されたら——」
彼女は一瞬、言葉を切った。
「……私が失った時間が、全部無意味になる」
自分でも驚くほど、率直な声だった。
「だからよ。あなたには、前に進んでもらわないと困るの」
それは優しさじゃない。
正義でもない。
ただの、身勝手な願いだ。
でも——
彼女が差し出したその手は、確かに震えていた。
2
霞は、俺を公園へ連れて行った。
接触許可を得たおかげで、
俺はようやくベンチに「座る」ことができた――
もっとも、感触はひどく薄く、
まるで薄氷の上に腰を下ろしているみたいだったが。
「時間の流れは、現実の十分の一」
霞は、もう一度ルールを確認するように言った。
「だから、時間はたっぷりある。
でも、虚曜日にいられるのは、現実時間で午前五時まで。
それを過ぎると……危険」
「危険って?」
「『閉じ込められる』」
霞の表情が、引き締まる。
「永遠に虚曜日に残ることになる。
現実世界での存在は、完全に抹消される。
……一度、見たことがある。
その人、二度と目を覚まさなかった」
背筋が、ぞっとした。
「……妹が残した『残像』は、どこに?」
「共鳴が必要」
霞は即答した。
「集中して、彼女のことを思い出して。
一番、強烈な記憶」
俺は、目を閉じる。
美雪、最後のキス。
頬を伝った涙。
『私の時間、全部あげる』
目を開けた瞬間――
ベンチの反対側に、光が灯った。
3
半透明の輪郭。
美雪が、膝を抱えて座っていた。
長い髪が垂れ、
その身体は朝霧のように薄い。
輪郭は、常に崩れ続けている。
「……お兄ちゃんを、助ける」
空洞のように遠い声。
その言葉を繰り返すたび、
彼女は、さらに透明になっていく。
俺は駆け寄り、抱きしめようとした。
――だが、腕はすり抜けた。
接触許可は、残像には効かない。
「美雪……俺は、ここにいる……」
「……お兄ちゃんを、助ける」
「……ごめん……」
「……お兄ちゃんを、助ける」
六度目の繰り返し。
そこに、聞き覚えのない男の声が割り込んだ。
『抹消された者を取り戻すには、
現実世界で三つの条件を満たす必要がある』
次の瞬間、
残像は完全に崩れ、
光の粒となって、消えた。
俺と霞は、無言で見つめ合う。
「……今の声、誰だ?」
「わからない」
霞の表情は、複雑だった。
「でも……妹が消える前、
私も似た声を聞いた気がする。
『条件』がどうとか……」
「……霞の妹も?」
「うん」
霞は拳を握りしめた。
「三年前、あの子は虚曜日を使って、
見ず知らずの人を救おうとした。
……法則違反」
「だから、ずっと探してた。
自発的な譲渡と、
法則による抹消は違うと思ってたけど……」
「……どっちも、戻れる可能性がある?」
「可能性は、ね」
霞は、俺を見る。
「でも、三条件って何?
どこで? どうやって?
……何もわからない」
4
虚曜日の「朝」。
空は相変わらず、灰白色のまま。
俺は、美雪の書机の前に座り、
彼女のノートを開いた。
接触許可があるおかげで、
ようやく、紙に触れられる。
――127ページ。
『ママが消える前に言ってた。
もし、私も選択を迫られたら、
『愛は時間よりも強い』って、忘れないでって。
……正直、よく分からない』
――128ページ。最後の一枚。
『お兄ちゃんが危ない。助けなきゃ。
ごめんね、ママ。
約束、破るね』
愛は、時間よりも強い。
俺は、その文字をなぞった。
そのとき――
ノートの最終ページに、
新しい文字が浮かび上がった。
美雪の字じゃない。
整った、印刷体。
『条件一:千人の証
――現実世界の千人に、
彼女の存在を『自発的に信じさせる』こと』
『条件二:記憶の欠片
――虚曜日に散らばった、
彼女の核心的記憶を七つ集めること』
『条件三:等価交換
――誰かが、彼女と等量の存在時間を支払うこと』
数秒、文字はそこに留まり――
水に滲むように、溶けて消えた。
俺は、勢いよく顔を上げた。
霞も、見ていた。
「……これが、三条件?」
「みたいね」
霞の声は重い。
「どれも、ほぼ不可能。
千人の証?今のあなたには、
一人だって彼女を覚えてる人はいない。
記憶の欠片?どこにあるかも不明。
等価交換……それはつまり、
誰かが彼女の代わりに消えるってこと」
「……俺が払う」
迷いはなかった。
「無理よ」
霞は首を振る。
「彼女は、あなたに全部の時間を渡した。
あなたの存在量は、もう彼女と結びついてる。
必要なのは、別の人。
彼女と直接関係のない誰かが、
自発的に、等量の時間を支払う必要がある」
――それは、
その人が消える可能性を意味する。
言葉を、失った。
「それに、記憶の欠片」
霞は続ける。
「虚曜日は広い。
欠片は、あちこちに散ってる。
もし、他の誰かに先に取られたら……」
「……どうなる?」
「……永遠に、取り戻せないかも」
絶望が、胸に広がる。
――そのとき、
美雪の残像が、最後に言った言葉を思い出した。
『お兄ちゃんを、助ける』
消えゆく最後の瞬間まで、
彼女は、俺のことだけを考えていた。
「……やる」
俺は、立ち上がった。
「どれだけ難しくても」
5
午前四時五十分。
「そろそろ、戻ったほうがいい」
霞が、そう告げた。
「帰り方は簡単。
目を閉じて、強く現実世界を思い浮かべる。
でも覚えてて――
虚曜日のものは、何一つ持ち帰れない。
……記憶以外は」
「……霞は?」
「私は、もう少し」
彼女は、軽く笑った。
だが、その笑顔は、どこか疲れている。
「慣れてるから。
また来週ね、健太先輩」
「……ああ」
目を閉じ、集中する。
自分の部屋。
現実世界の色。
流れていく、時間。
軽い眩暈。
目を開けると、
俺は自分のベッドに横たわっていた。
カーテンの隙間から、朝の光。
スマホの表示。
『月曜日 6:10』
起き上がり、手を見る。
人差し指に、
薄い印が残っていた。
銀色の、細い線。
注意して見なければ、気づかないほど。
――虚曜日の痕跡。
そして、
美雪がくれた『贈り物』の証。
窓へ行き、カーテンを開ける。
月曜の朝。
世界は、何事もなかったように動いている。
人は仕事へ。
学生は学校へ。
日曜と月曜の間に、
余分な一日が存在することを、誰も知らない。
ましてや――
俺を救うために、一人の少女が、
すべての記憶から消えたことなど。
「……待ってて、美雪」
朝の光に、囁く。
「必ず、三つの条件を見つける」
「必ず、連れ戻す」
「……どんな代価を払っても」
窓ガラスに映る、俺の顔。
そして、あの銀色の印。
――それが、始まり。
同時に、
カウントダウンでもあった。
虚曜日の美雪さん 白狼九音 @diqiuqiuzhang
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