虚曜日の美雪さん
白狼九音
第1話 平凡な世界の崩壊
目を覚ましたとき、世界はすでに――彼女を失っていた。
白い天井。鼻を刺す消毒液の匂い。点滴チューブの中で、透明な液体が一滴、一滴、息が詰まりそうなほど規則正しく落ちていく。
俺はその白さをじっと見つめていた。意識は、深海に沈んだ破片みたいに、ゆっくりと――少しずつ水面へ浮かび上がってくる。
「目、覚めました! 起きましたよ!」
看護師の声が霧を切り裂いた。続いて足音。白衣の医師。そして――母さん……いや、違う。隣の佐藤さんだ。
どうしてここに? どうして、泣いてる?
「健太……健太、もう……心配させないでよ……」
喉は砂漠みたいに乾ききっていて、声は自分のものとは思えないほど掠れていた。
「……美雪は?」
病室の空気が、一瞬で凍りついた。
佐藤さんの表情が、顔に貼りついたまま固まる。赤く腫れたその目には、はっきりとした困惑が浮かんでいた。
「……誰のこと?」
「美雪だよ。俺の妹」
起き上がろうとした瞬間、左腕に激痛が走った。ギプス。
歯を食いしばりながら、俺は続ける。
「どこにいるんだ? あいつも……怪我したのか?」
医師と看護師が、視線を交わす。
その目を、俺は一生忘れないと思う。
悲しみでも、同情でもない。
ただただ、作りものじゃない――純粋な困惑。
「瀬戸くん」
医師は身をかがめ、まるで精神科の患者に話しかけるみたいに、穏やかな声で言った。
「……君に、妹さんはいるのかい?」
時間は、四十八時間前へ遡る。
――いや、本当に「遡る」ことなんて、できるんだろうか。
後になって俺は知った。決して戻れない時間があることを。
それらは、どこかの隙間に閉じ込められ、永遠のループになる。
日曜の夜、二十三時五十分。
俺は人影一つない街を、必死に走っていた。
月明かりが、異様なほど明るい。まるで舞台のスポットライトみたいに、俺が走るこの道だけを照らしている。
「くそ……急げ、急げ……」
胸に抱えたケーキの箱。
足音だけが、静まり返った街にやけに大きく響く。
今日は美雪の誕生日――いや、正確には、あと十分で、だ。
『ねえお兄ちゃん。チョコレートケーキがいいな。上にイチゴ乗ってるやつ』
夕方、そう言ったときの、きらきらした目が頭から離れない。
『適当なイチゴじゃだめだよ? 三つ。ちゃんと三角形に並んでるやつ』
そう言いながら、美雪は無意識に左手で右の手首を撫でていた。
そこには、薄い銀色の痕。あざみたいで、火傷みたいで――
何度も聞いた。
そのたび、彼女は笑って答えた。
『天使のキスマークだよ』
……でも、その笑顔は、どこか震えていた。
今なら分かる。
あれは、恐怖だった。
――「最後の誕生日」が、近づいてくることへの。
三軒目のコンビニで、ようやく最後のチョコレートケーキを見つけた。
小さくて、正直、ちょっとみすぼらしい。でも、それでも――
赤信号。
立ち止まり、荒い息を吐きながら、向かいの空っぽの車道を見る。
深夜の交差点。車一台、走っていない。
カウントダウンが始まる。
30、29、28……
待っていられなかった。
俺は、飛び出した。
闇を切り裂くように、眩しいハイビームが迫ってきたとき、
それが何なのか、理解する暇すらなかった。
時間が、遅くなる――いや、違う。「粘つく」。
空気はシロップみたいに重く、足を動かすたび、強い抵抗がまとわりつく。
ケーキの箱が手から離れ、宙で回転する。
イチゴが零れ落ち、アスファルトの上を転がっていく。
振り向いた先には、巨大なトラックのフロント。
――死ぬ。
その考えは、ガラスのひびみたいに、はっきりしていた。
そして――彼女が、いた。
道路の真ん中に。
前触れもなく。夜そのものから、形を結んだみたいに。
……いや、「現れた」んじゃない。
「浮かび上がった」んだ。
もっと深い闇の底から。
美雪。
パジャマ姿で、裸足。
車灯に照らされて、長い髪が揺れる。
その瞬間、時間は完全に停止した。
宙に浮かぶケーキ。
転がるイチゴ。
トラックのライト。
すべてが、奇妙な静物画みたいに固まる。
動いているのは、美雪だけ。
――でも、その動きは、おかしかった。
古い映画のコマ落ちみたいに、ぎこちなく、一瞬ずつ。
一歩進むごとに、身体の輪郭が曖昧になっていく。
美雪は俺に向かって走ってきた。
涙が、頬にきらきらと軌跡を描く。
「お兄……ちゃん……」
逃げろ、と叫びたかった。
でも、声は喉に引っかかったまま、出てこない。
彼女の手が、俺の頬に触れる。
――冷たい。
生きている人間の体温じゃない。
「……ごめんね」
泣きながら、美雪は言った。
「ごめん……ずっと、隠してた」
彼女の身体が、光り始める。
車灯の反射なんかじゃない。内側から滲み出る、銀白色の光。
パジャマを透かして、皮膚の下を流れる模様が見えた。
それは回路みたいで、血管みたいでもあった。
トラックのライトが、美雪の身体をすり抜ける。
霧を通すみたいに。
輪郭が、透けていく。
「……これで、百二十八回目」
――何、だって?
「全部の『第八日』を、溜めてきたの」
涙が、俺の顔に落ちる。
驚くほど、熱い。
「……今、それを全部……お兄ちゃんにあげる」
彼女は、俺の額に口づけた。
温度はない。
あるのは、底の見えない悲しみだけ。
深海の水圧みたいなそれが、接触点から全身へ、じわじわと広がっていく。
同時に――記憶が、洪水のように流れ込んできた。
連続した映像じゃない。
断片だ。
七歳の美雪。布団の中で泣いている。手首の銀色の痕が光っている。
十二歳の美雪。深夜の部屋で、誰もいない空間に向かって――
『……ママ、こわいよ』
十四歳の美雪。ノートに書いている。
『今日はお兄ちゃんが笑った。ちゃんと覚えておかなきゃ』
十六歳の美雪。昨夜。ベッドの上で膝を抱え、静かに。
『……今回は、ほんとにお別れだね』
そして、最も鮮明な光景。
灰色の部屋。
目の前には、巨大な鏡。
鏡の中には、無数の美雪。
赤ん坊から少女まで、螺旋を描くように並んでいる。
全ての美雪が、同じ言葉を、口の動きだけで伝えてくる。
――『お兄ちゃん、もう進まないで』
現実の美雪は、鏡に向かって首を振った。
「……だめ」
「今回は……ちゃんと、忘れてもらう」
彼女は、鏡に手を当てた。
鏡が、砕ける。
すべての「彼女」も、砕け散る。
光が、世界を呑み込んだ。
「……君に妹はいない」
医師は、まるで「今日は晴れですね」と言うみたいに、淡々と繰り返した。
「戸籍上、君は一人っ子だ。
三年前にご両親を亡くしてから、ずっと一人で暮らしている」
「……そんな、はず……」
ベッドを降りようとして、看護師に止められる。
「写真が……スマホに……」
震える手で、枕元のスマートフォンを掴み、ロックを解除する。
必死に、アルバムを遡る。
――ない。
三年前から今まで、千枚以上の写真。
学校。街。食べ物。空。
……美雪だけが、いない。
トロフィーを抱えて笑う彼女も。
ソファで寝落ちしているところを盗み撮りした一枚も。
去年の花火大会で、浴衣姿で振り返った、あの瞬間も。
全部、消えていた。
「……近所の人は?」
俺は佐藤さんの手を掴んだ。
「見てただろ? 美雪だよ。茶色い長い髪で、俺より頭一つ低くて、いつも笑ってて――」
佐藤さんの表情が、俺の心を底まで突き落とした。
作りものじゃない。
本物の、困惑。
「健太……頭、強く打ったんじゃない?
あたし、十年あなたのこと知ってるけど……妹なんて、見たことないよ」
冷や汗が、病衣を濡らした。
俺は、退院を強く主張した。
医師は精神科の診察を勧めたが、身体検査の結果はすべて正常。
左腕の骨折と擦り傷以外、重傷は一切なし。
――「奇跡的な生存」。
カルテにはそう書かれていた。
ただし、「奇跡」という言葉には丸がつけられ、小さなクエスチョンマークが添えられていた。
「トラックは、君にぶつかる直前で急ハンドルを切り、歩道に突っ込んだ」
事情聴取に来た警官は、そう言った。
だが、視線は俺じゃない。病室の隅々を、何か探すように見回している。
「運転手は、君が急に飛び出してきたと言っている。
……生きていて、本当に運が良かった」
運が、いい。
ギプスの巻かれた左腕を見る。
その言葉は、針みたいに耳に刺さった。
警官は帰り際、少し迷ったあと、名刺を一枚差し出した。
「……何か、思い出したら。
普通じゃないことでも、ここに連絡してくれ」
名刺には、名前だけ。
――風見 奏。
肩書きも、連絡先もない。
ただ一行、小さく。
『時間に関する相談』
さらに下には、ほとんど見えない透かし文字。
――『もう、子どもが母を失わないために』
顔を上げたとき、警官の姿は、もうなかった。
家に戻ったのは、午後三時だった。
皮肉なほど、よく晴れていた。
玄関に立ち、十七年間暮らしてきたこの家を見渡す。
初めて、違和感を覚えた。
――いや、違う。
これは「見知らぬ」感覚じゃない。
「間違っている」という感覚だ。
下駄箱には、彼女の靴はない。
それなのに、並べて置かれたスリッパが二足ある。
一つは青、もう一つはピンク。
洗面所に、二本目の歯ブラシはない。
だが歯ブラシ立てには、差し込み口が二つあり、
片方には俺の歯ブラシ、もう片方は――空白だった。
食卓には、彼女がいつも片づけ忘れていた数学の下書きはない。
だが、テーブルの角には、薄い引っかき傷が残っている。
紙を何度も擦ったような、長年の痕跡。
俺は、彼女の部屋へと駆け込んだ――
そして、ドアの前で凍りつく。
……そこは、美雪の部屋じゃなかった。
そこにあったのは、
「物置」だった。
古い段ボール箱。
折り畳まれた物干し台。
もう使われていない扇風機。
壁には、彼女が貼っていた星空のポスターはない。
本棚に、分厚い参考書はない。
窓辺に、あの多肉植物の列もない。
あるのは、埃と、死んだような静けさだけ。
――でも、おかしい。
俺は中へ入り、しゃがみ込む。
指先で、床をなぞった。
四本の平行な傷。
……ベッドの脚の跡だ。
この部屋には、確かにベッドがあった。
シングルベッドが、一台。
立ち上がり、壁を見る。
壁紙に、微妙な色の違いがある。
周囲より、わずかに色の薄い長方形。
横およそ一・二メートル、縦一・八メートル。
――ポスターが、貼られていた場所。
「……いや……」
俺は床に膝をつき、段ボール箱を次々と開け始めた。
あるはずだ。
彼女が存在した証拠が。
成績表。
学生証。
彼女が一番気に入っていた、ウサギ柄のボールペン――
一つ目。
古着。俺のもの。
二つ目。
高校の教科書。
三つ目。
アルバム。
俺は、アルバムを開いた。
一ページ目。
赤ん坊の頃の俺。両親に抱かれている。
二ページ目。
幼稚園の卒園式。
三ページ目。
小学校の入学式。
四ページ目――
空白。
写真が剥がされたわけじゃない。
最初から、印画紙そのものが真っ白だ。
だが、アルバムのデザインでは、
このページには写真があるはずだった。
ページの隅に、小さく印字されている。
『中学入学式』
俺は、狂ったようにページをめくった。
本来なら「二人」で写っているはずの写真。
それらはすべて、空白になっている。
俺の記憶の中で、彼女がいたはずの場面は、
すべて――俺一人だけになっていた。
それなのに。
空白のページ、その端々に、
必ず――茶色い髪の毛が一本、挟まっている。
幽霊みたいに。
しつこく、絡みついてくる。
額から汗が滴り落ちる。
それは、別の温かい液体と混ざっていた。
顔を拭って、気づく。
……泣いている。
悲しくて、じゃない。
――怖くて、だ。
もし、記憶ですら、
ここまで正確に消せるのだとしたら。
「俺」は、本当に「俺」なのか?
でも――
「記憶は消され、時間は改竄され、世界はあなたの存在を否定することができます。でも私の魂はあなたを覚えています。それで十分」
玄関のドアを閉める音が、やけに大きく響いた。
靴を履き替え、廊下を進む。
何度も繰り返してきた、いつもの動作。
——なのに。
俺は、階段の前で足を止めた。
一段、二段。
心の中で、無意識に数えていた。
本来なら、隣にもう一つあったはずの足音を。
「……」
自分でも気づかないうちに、息が詰まる。
分かっている。
彼女は、もういない。
理解したつもりでいた。
それでも——
俺の体は、まだ二人分の時間を数えることをやめていなかった。
俺はゆっくりと息を吐き、
その場で立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。
深夜。
かつて彼女の部屋だった場所の床に座り、
冷たい壁に背中を預ける。
スマートフォンの光が、俺の顔を照らす。
検索欄に、打ち込む。
『瀬戸 美雪』
表示されるのは、無関係な同姓同名ばかり。
『16歳 飛び級 東大合格』
――彼女の名前は、どこにもない。
学校に電話をかけた。
当直の教師は、丁寧で、そして困惑した声で言う。
「瀬戸くん……その名前の生徒は、うちの学校にはいませんが……」
世界は、
彼女が消えたという一点において、
驚くほどの一致を見せていた。
すべての記憶。
すべての記録。
すべての痕跡。
完璧に、消去されている。
鉛筆の文字を消しゴムで消すみたいに。
凹みすら、残さずに。
――俺を、除いて。
なぜ、俺だけが覚えている?
額に残る、あのキスの感触。
冷たくて、悲しくて、
まるで最後の別れみたいだった。
『私の時間、全部あげる』
その言葉が、頭の中で繰り返される。
時間。
虚曜日。
俺は、勢いよく立ち上がり、
眩暈に一瞬、視界が揺れた。
物置。
段ボール箱。
一番下――
箱をすべてひっくり返し、
ようやく、隅でそれを見つけた。
深い紺色の、ハードカバーのノート。
角は擦り切れ、表紙に文字はない。
震える手で、ページを開く。
一ページ目。
見慣れた、彼女の字。
『第1の虚曜日。
ママがくれた。これは、私たちの家族の秘密。
毎週日曜の深夜、もう一日が生まれる。
選ばれた人だけが入れる日。
これは、贈り物であり、呪いだって。』
ページをめくる。
『第37の虚曜日。
ママが、だんだん透明になってきた。
これが代償。
虚曜日を使う人は、存在が削れていく。』
『第89の虚曜日。
ママが消えた。
誰も覚えていない。
私だけが覚えてる。
……お兄ちゃんも、覚えてない。』
『第127の虚曜日。
もう虚曜日は使わない。
普通の人みたいに、お兄ちゃんと一緒に、ゆっくり大人になる。』
――そこで、指が止まった。
最後のページ。
昨日の日付。
『第128の虚曜日。
お兄ちゃんが危ない。
助けなきゃ。
ごめんね、お兄ちゃん。
約束、破るね。』
そこから、文字は乱れていく。
極度の焦りの中で、書き殴ったように。
『これを読んでるってことは、成功したってこと。
そして、私はもう、みんなの記憶から消えてる。
……お兄ちゃん以外。』
『だって、私の時間――
私の全部の虚曜日を、あげたから。』
『これからは、お兄ちゃんも、週に一日多く生きる。
日曜と月曜の間。
午前零時の、その先。』
『ごめんね。
ごめんね、お兄ちゃん。』
『でも――生きて。』
涙が、紙に落ち、
インクが滲んだ。
俺はそのノートを抱きしめ、
空っぽの物置で、声を殺して泣いた。
三年前、両親が死んだときみたいに。
……いや。
それ以上に、絶望して。
だって今回は、
世界で俺一人だけが、
「失ったもの」を覚えているのだから。
遠くで、真夜中の鐘が鳴る。
最後の一音が消えた、その瞬間。
世界が、色を失い始めた。
古い写真みたいに、
色彩だけが剥がれ落ち、灰白だけが残る。
音が消え、
時間が止まり、
すべてが、ある瞬間で凍結する。
――動けるのは、俺だけ。
壁の時計を見る。
針は、
零時零分零秒。
そこから、二度と動かなかった。
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