第1話『私のシュークリームが消えた』
第1話『私のシュークリームが消えた』
それは、土曜日の夕方。部活後のことだった。
玄関で靴を脱ぎながら、私はすでに頭の中で白くて丸いものの姿を思い浮かべていた。
今日の楽しみは、あれしかない。
昨日のお昼、母がお客さんから貰ってきたシュークリーム。
家族で一個ずつ食べて、最後の一個は私の分として冷蔵庫に残しておいたはずの、あのシュークリームだ。
制服のまま台所に直行し、冷蔵庫の前に立つ。
扉を開ける、その一瞬までは、疑いなど一切なかった。
――ない。
正確に言うと、あるべき場所に、それがない。
牛乳。卵。
野菜室の半分くらいを占拠しているキャベツ。
だが、プラスチック容器に入った、あのシュークリームの姿が見当たらない。
私は一度、冷蔵庫を閉めた。
もう一度開けた。
やはり、ない。
「……あれ?」
思わず声が出る。
頭の中で、嫌な予感がゆっくりと形を取り始めた。
シュークリームは、消える。
理由もなく、自然に、忽然と。
そんなことがあるわけがない。
私は冷蔵庫の中を一段ずつ確認した。
上段、中段、下段。
野菜室も、念のために覗く。
――やっぱり、ない。
「……」
背中に、じわっと汗がにじんだ。
これは、事件だ。
私がそう結論づけるまでに、五秒とかからなかった。
長嶋みのり、高校二年生。
私は、日常の些細な異変を見逃さない。
見逃さないというより、放っておけない性格なのだ。
昨日の夕方。
家族で食後のデザートとして、シュークリームを四つ食べた。
父、母、妹のひより、そして私。
その時、母が言った。
「もう一個あるけど、どうする?」
私は即答した。
「明日の朝食べる」
珍しく誰も反対しなかった。
父は「若いっていいよな」とよくわからないことを言い、ひよりは口の周りにクリームをつけたまま、大人しく頷いていた。
つまり。
あのシュークリームは、確実に“存在していた”。
それが今、ない。
「……お父さーん?」
私は台所から声を張り上げた。
リビングのソファでテレビを見ていた父――長嶋 恒一が、ゆっくりこちらを振り向く。
「なに?」
「シュークリーム、知らない?」
できるだけ平静を装って聞いたつもりだったが、声のトーンは少しだけ低かったと思う。
一瞬の沈黙。
ほんの一瞬だったが、私は見逃さなかった。
「……シュークリーム?」
父は、考えるように眉を寄せた。
「いや? 俺は食べてないぞ」
来た。
この言い方。
「俺は食べてない」
それは、「食べた可能性を自分で意識している人間」の発言だ。
「本当に?」
私は一歩、父に近づいた。
視線を外さずに聞く。
「本当だって。俺はもう甘いもの控えてるし」
そう言いながら、父は無意識にお腹をさすった。
信用度は、低い。
「昨日の夜、台所来た?」
私はメモを取る探偵の気分で、淡々と質問を重ねる。
「水飲みに行ったくらいだな」
父は悪びれもせず、テレビに視線を戻した。
夜中に水。
夜中の台所。
甘いもの好き。
私は心の中で、赤丸を一つつけた。
その時、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ただいまー!」
妹のひよりが、遊びから帰ってきたらしく、カバンを放り投げて上がってくる。
「おかえりー」
「ひより、シュークリーム食べた?」
私は間髪入れずに聞いた。
「えっ? 食べてないよ!」
声がやけに大きい。
そして、なぜか一歩後ずさる。
「ほんとに?」
私は首を傾げる。
「ほんとほんと! たぶん!」
……たぶん?
ひよりの口の端に、白いものがついている。
私はそれをじっと見た。
「それ、なに?」
「え? 友達の家で食べたロールケーキ」
都合が良すぎる。
ひよりは慌てて袖で口を拭いた。
拭いた結果、余計に白い跡が広がった。
私はため息をついた。
「……しらたまは?」
白い猫――しらたまは、なぜか冷蔵庫の前に座っていた。
こちらを見上げて、しっぽをゆっくり振っている。
「……まさかね」
届くわけがない。
けれど、タイミングが良すぎる。
その時点で、私の中の容疑者リストはこうなっていた。
第一容疑者:父(夜中・甘党)
第二容疑者:ひより(証言が怪しい)
第三容疑者:しらたま(無実そうな顔が逆に怪しい)
そして、重要人物が一人、いない。
母だ。
今日はパートと買い物で、まだ帰ってきていない。
母がいない間に、事件は起きた。
私は腕を組み、冷蔵庫の前に立った。
ただのシュークリームだ。
そう言われれば、それまでだ。
でも、これは私のシュークリームだった。
明日を楽しみに取っておいた、私の分。
それが理由もなく消えるなんて、認められない。
「……犯人は、この家にいるよ」
私がそう言うと、父が苦笑いした。
「大げさだなあ」
ひよりは、しらたまを抱き上げて言った。
「しらたまかも!」
しらたまは、無邪気に舌を出した。
誰も、真剣じゃない。
私以外は。
私は決めた。
この事件、徹底的に調べる。
シュークリームの行方が明らかになるまで、
私は絶対に引き下がらない。
――これは、長嶋家・シュークリーム消失事件の始まりだった。
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