第2話 逃走中、徳川の威光……効果なし



​「走れ、チャコ!」


「ちょっ、ケン! どこに行くのよ!?」


「とにかく、あいつらから離れるんだ!」


​ 俺はチャコの手首を掴み、雨煙る路地裏へと駆け込んだ。

 背後からは、シャン、シャン、という鈴の音と、ヒタヒタと濡れた地面を叩く無数の足音が迫ってくる。


​ 全力疾走したい。


 だが、できない。


 足が遅いわけではない。俺の股間が、物理的にそれを拒否しているのだ。

 一歩踏み出すたびに、ズボンの股下で重たい何かが「ボヨン、ボヨン」と暴れる。

まるで水風船を二つぶら下げて走っているような、奇妙な慣性が働くのだ。

 内腿が擦れて痛い。ベルトが食い込んで苦しい。

 俺は無意識のうちに、相撲取りのすり足のような、奇妙なガニ股走法にならざるを得なかった。


​「ケン、走り方が変よ! どこか怪我したの!?」


「気にするな! ……くっ、あそこだ!」


​ 俺たちが逃げ込んだのは、町外れにある古びた稲荷神社だった。

 朱色の鳥居をくぐり、拝殿の裏手に回り込む。

 だが、そこは行き止まりだった。


​「しまった……!」


「逃げ場などないぞ」


​ 頭上から冷ややかな声が降ってきた。


 見上げれば、鳥居の上に黒い着物の男たちが立っていた。狐の面の下から、不気味な笑い声が漏れる。

 あっという間に、境内は数十匹の狐たちに包囲されていた。

 中央を割って、白無垢姿の永久とわが進み出る。


​「無駄な抵抗はやめよ。お前は八歳の時、妾と契約を交わしたはずだ」


「契約って……俺はただ、助けてもらったお礼を言っただけだ!」


「それが契約だ。あやかしの世界において、言質げんちは絶対なのだよ」


​ 永久が手を振ると、黒狐たちがじりじりと包囲網を縮めてきた。

 チャコが俺を庇うように前に出る。震える手で、近くに落ちていた枯れ枝を構えている。


​「やめなさいよ! ケンは……ケンは歴史オタクでちょっと変なやつだけど、大事な幼馴染みなの! 連れて行くなら私を倒してからにしなさい!」


「チャコ、やめろ!」


​ あんな細い枝で、あやかしに勝てるはずがない。

 俺は歯を食いしばり、痛む股間を叱咤して前に進み出た。

 力では勝てない。なら、俺に残された武器は「知識」と「血筋」だけだ。

​ 俺は震える足を踏ん張り、精一杯の虚勢を張って叫んだ。


​「ひかえい、控えおろうー! 俺を誰だと思っている!」


「ほう?」


「俺は松平拳次。天下の『神君・徳川家康』の末裔だぞ!」


​ 俺はカバンから、祖父の形見である「三つ葉葵の印籠(キーホルダー)」を取り出して掲げた。


 水戸黄門なら、これで全員がひれ伏す場面だ。


 家康公は神格化され、東照大権現として祀られている。あやかしだって、神様の血縁には手出しできないはずだ。


​ しかし……返ってきたのは、乾いた嘲笑だった。


​「プッ……家康、だと?」


「おい聞いたか。あの狸親父の血筋だそうだ」


「人間界で多少偉かろうが、我ら高貴な狐一族には関係のないことよ」


​ 黒狐の一人が、俺のキーホルダーを鼻で笑う。

 永久もまた、憐れむような目を向けた。


​「残念だが、権威でどうにかなるのは人間相手だけだ。……連れて行け」


​ 終わった。


 ハッタリは通じなかった。


 黒狐の太い腕が、俺の首根っこを掴もうと伸びてくる。


 チャコの悲鳴が聞こえた。


​ 恐怖と絶望……その極限状態で、俺の身体が限界を超えた。

 心臓の鼓動よりも激しく、股間の奥底でドクンドクンと脈打っていた「熱」が、ついに沸点に達したのだ。


​ ビリッ。


 まず、俺のお尻の縫い目が悲鳴を上げた。


​ そして……ボォン!!!!


​ 境内全体を揺るがすような、何かが暴発する音が響き渡った。



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