フリッツ・ヴァルターの天気

楢原由紀子

ベルン1954 ヨコハマ2002

 人がどんどん増えていく。どこまでも続く大人たちの胸、肩、頭。

9歳のフランツは涙をこらえながらあたりを見回す。

どこか、少しでも高いところ、向こう側が見られるところ……

母と共に背の高い大人の男たちに四方を囲まれた少年には、そこへ辿り着く方法さえ見つけられなかった。

郵便局員の父はパレードを無視し、いつも通り出勤していった。

このお祭り騒ぎのミュンヘンで、時間通り職場へ向かう人などいないのに。

少年の眼から涙がぽとぽとと服に落ちる。

その時、見知らぬ力強い腕がぐいっとフランツを持ちあげ、建設途中の掘立て小屋の上に乗せてくれた。


 視界が急に開ける。

「優勝トロフィーって、あんなに小さいんだ……」

少年は意外そうに呟く。

彼の眼は黒髪痩身の男に釘付けだった。

数日前スイスで行われたサッカーワールドカップの決勝で、世界最強と名高いハンガリーを破って初優勝した西ドイツ代表チームの主将。

疲れが垣間見える笑顔でトロフィーを掲げるフリッツ・ヴァルター。

彼がフランツのヒーローだった。


 「私はこれから日本へ行く。東京オリンピックに向けて日本代表チームを強化するために、技術コーチとして招聘されたんだ」

「日本、ですか?クラマーコーチ」

「ああ。我らがヘルベルガー監督が話していただろう?」

「1936年のベルリン・オリンピック。ドイツはまずい試合で総統の機嫌を損ねた。一方、学生たちで構成された日本代表はスウェーデンに対してよく戦い、見事に勝利した、と。きっと何かの縁なのだと思ってね」

まだ三十代なのに禿げあがった広い額、ドイツ人にしては相当に小柄な体躯。

後に「日本サッカーの父」と評されるデットマール・クラマーは期待の若手選手、フランツに鋭い眼光を向ける。


 「ひどい雨続きだな」

選手がぼやく。

グラウンドの水を掃き出すために控え選手たちも駆り出され、ローラーやぼろ切れを手に右往左往していた。

「フリッツ・ヴァルターの天気だ。代表の試合にとっては悪くない」

1974年7月西ドイツのミュンヘン。ワールドカップ決勝戦のカードはオランダ対西ドイツ。

皇帝カイザー”の異名を持つドイツ代表のリベロ、ベッケンバウアーは冷静に答え、キャプテンマークを腕に巻いた。


 強い雨がホテルの窓ガラスを打つ。

全体を通して酷暑だった大会の決勝戦を目前に、横浜の気温は下がっていた。

湿度は高いままだったが。

史上初めてアジアで開催された大会、ワールドカップ2002。


 「フリッツ・ヴァルターの天気。あの試合から、もう半世紀近くになるのか……」

長身、銀髪、眼鏡の紳士が呟く。

「ドイツが3対2でリード!狂ったのかと言ってくれ、気は確かかと言ってくれ!」

彼の耳にラジオの絶叫が昨日のことのように甦る。

「次の相手がいつも一番難しい」

当時の代表監督、ヘルベルガーの口癖も。

あの伝説の試合の主将、フリッツ・ヴァルターは決勝の2週間前に世を去っていた。


 「そろそろ出発のお時間です」

「ああ、今行く」

48年前ミュンヘンのパレートで優勝トロフィーを遠くから見つめた少年。

ドイツサッカー連盟副会長、フランツ・ベッケンバウアーは窓から踵を返した。

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フリッツ・ヴァルターの天気 楢原由紀子 @ynarahara

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