発音記号バトル

駅前のベンチ。夕方の風が冷たくて、二人の間に紙袋が一つ。通り過ぎる人もまばらで、駅のアナウンスが遠くでぼんやり響いている。


坂口: 「なあ、水野。これ見てみ。英語の発音記号、全部同じ音やろ?」


 


水野: 「は?どこがやねん。全部ちゃうやろ。見てみ、これ“æ”と“ʌ”やで?」


 


坂口: 「いやいや、どっちも“ア”やん。細かいこと言い出したらキリないって」


 


水野: 「いや、全然ちゃうからな。『cat』の“æ”と『cut』の“ʌ”、発音違うやろ。舌の位置も口の開きも」


 


坂口: 「ほな、全部アメリカ英語でええやん。どっちも“キャット”も“カット”も、アメリカ人は勢いで言うてるって」


 


水野: 「勢いで済ませんなや。要するに何?全部“ア”で統一したいってこと?」


 


坂口: 「そうそう。細かい区別、意味ある?“ア”でええやん。日本人やし」


 


水野: 「いや、そこ雑にしたら英語の先生泣くで。ほな、これ“ɔː”は?『caught』の音。これも“ア”?」


 


坂口: 「“コート”やろ?“カート”でも“コート”でも、どっちも“オー”やん。日本語でええって」


 


水野: 「それ、どういう意味?“オー”って言うたら全部“オー”になるやん。『boat』も『bought』も一緒?」


 


坂口: 「せや。全部ボートでええやん。細かいこと言い出したら、舌つるで」


 


水野: 「いや、舌つるとかの問題ちゃう。発音記号の意味どこいったん」


 


坂口: 「発音記号、見た目がカッコええだけやろ。実際、使い分けてる人おらんて」


 


水野: 「いや、英語の先生は使い分けてるやろ。ほな、試しに読んでみてや。“æ”と“ʌ”と“ɑː”と“ɔː”、全部」


 


坂口: 「一回やってみるわ。“æ”…ア。“ʌ”…ア。“ɑː”…アー。“ɔː”…オー。な?」


 


水野: 「全部ほぼ一緒やんけ。カオナシかよ。」


 


坂口: 「いや、ちゃうって。微妙にちゃうやろ。ア、ア、アー、オー。ほら、音の長さで区別できる」


 


水野: 「それ、長さだけやん。質の違いは?」


 


坂口: 「質って何やねん。音に質とかある?」


 


水野: 「あるやろ。舌の位置、口の開き、唇の丸め方。全部違う」


 


坂口: 「ほな、水野やってみてや。今の四つ、連続で言うてみ」


 


水野: 「æ、ʌ、ɑː、ɔː…キャ、カ、カー、コー…いや、なんか日本語なってまうな」


 


坂口: 「ほら見てみ。結局日本語やん」


 


水野: 「いや、今のは俺が悪い。もう一回やる。“æ”…エァ。“ʌ”…ア。“ɑː”…アー。“ɔː”…オー」


 


坂口: 「それ、さっきと変わらんやん。英語吹替のカオナシや。」


 


水野: 「いや、エァは“æ”やねん。英語の“cat”の“æ”は“エァ”寄りやから」


 


坂口: 「ほな、“cut”は?」


 


水野: 「“カ”。“ʌ”は“カ”。」


 


坂口: 「“cart”は?」


 


水野: 「“カー”。“ɑː”は“カー”。」


 


坂口: 「“caught”は?」


 


水野: 「“コー”。“ɔː”は“コー”。」


 


坂口: 「全部“カ”と“コー”やん。やっぱ一緒やん」


 


水野: 「いや、そこに微妙な違いがあるんやって。要するに何?全部一緒って言いたいん?」


 


坂口: 「そうや。“カ”と“コー”で世界回るって。イギリス人もアメリカ人も、最終的には勢いや」


 


水野: 「勢いで英語やるなや。ほな、次は“iː”と“ɪ”や。“seat”と“sit”」


 


坂口: 「“シート”と“シット”。どっちも“シ”やん」


 


水野: 「いや、長さと口の形が違う。“iː”は“シー”、“ɪ”は“シ”。」


 


坂口: 「“シー”と“シ”、違い分からん。日本語の“し”でええやん」


 


水野: 「それやと“shit”と“sheet”間違えるやろ。大事故やで」


 


坂口: 「大丈夫や。日本人やから許される」


 


水野: 「許されへんわ。ほな、全部日本語でええってこと?」


 


坂口: 「そうや。“ア”“イ”“ウ”“エ”“オ”で全部いける」


 


水野: 「それ、定義増やしすぎて意味わからんわ。英語の発音記号、存在意義どこいった」


 


坂口: 「見た目がカッコええやん。あと、先生が黒板に書くときだけ使うやつやろ」


 


水野: 「いや、発音記号は発音のためにあるんやって。ほな、今から俺が発音記号見せるから、全部読み分けてみ」


 


坂口: 「一回やってみよ。“θ”」


 


水野: 「“スィ”や。“think”の“th”」


 


坂口: 「“スィ”な。“ð”は?」


 


水野: 「“ズィ”。“this”の“th”」


 


坂口: 「“スィ”と“ズィ”、どっちも“シ”やん」


 


水野: 「いや、ちゃうって。舌の位置が違う。“θ”は歯の間に舌挟む。“ð”は声出す」


 


坂口: 「やってみ。“スィ”“ズィ”…どっちも“シ”やん」


 


水野: 「いや、今の全然違うやろ。…いや、違わんか?」


 


坂口: 「違わんて。日本語の“し”で全部いける」


 


水野: 「話戻すぞ、要するに何が言いたいん?」


 


坂口: 「発音記号、全部日本語でええやん。細かいこと気にしたら負けや」


 


水野: 「それやと英語の授業全部崩壊するで。先生泣くぞ」


 


坂口: 「ほな、先生用にだけ残しといたらええやん。俺らは勢いで」


 


水野: 「勢いで英語やるな言うてるやろ。」


 


坂口: 「要するに、全部“ア”と“イ”で世界回る」


 


水野: 「…もうええわ。次の電車来るし、歩こか」


 


二人が立ち上がる。駅のアナウンスが英語で流れる。「ネクストトレイン、イズ、カミング…」

風が強くなって、二人の声が少し流された。

沈黙のまま、ベンチを離れて駅へ向かう。

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