非常時マニュアル絶対主義

冬の夕方、駅前のベンチ。吐く息が白くて、改札の電子音が遠くで規則的に鳴っている。水野は膝の上にカバンを置き、坂口は立ったり座ったりを落ち着きなく繰り返している。




水野: 「で、何がヤバいん?」




坂口: 「ヤバいねん。今日はもう、非常事態やねん。」




水野: 「ほな、いつも通りでええやん。」




坂口: 「いつも通りって何やねん。非常事態や言うてるやろ。」




水野: 「非常事態ほど、慣れた手順や。まず座る。次に状況を言語化する。最後に、

いつも通り動く。」




坂口: 「それ、今もやってるやん。動けや。」




水野: 「焦らん。焦ったら手順が崩れる。」




坂口: 「手順が崩れるとかじゃなくてな、ほら……俺、財布落とした。」




水野: 「いつも通りやん。」




坂口: 「どこがいつも通りやねん。財布やぞ。金も学生証も入ってんねん。」




水野: 「落とし物は、駅に聞く。これは手順その一。」




坂口: 「うん、それは分かる。けど今日のヤバさ、財布だけちゃうねん。」




水野: 「順番守れ。まず財布。」




坂口: 「……ほな言うで?財布落とした上に、さっき改札で警報鳴って、駅員さんが走ってた。」




水野: 「それもいつも通りやん。」




坂口: 「駅員が走る日常、どこにあんねん。」




水野: 「駅員は走る。人は走る。駅はそういう場所。」




坂口: 「哲学やめろや。さらに言うで?ホームで『避難誘導します』ってアナウンス

流れてた。」




水野: 「ほな、いつも通り避難や。」




坂口: 「避難をいつも通りって言うな。避難したことないやろ。」




水野: 「したことないからこそ、手順を作る。まず落ち着く。次に、看板を見る。最後に、人の流れに乗る。」




坂口: 「それ、全部その場で思いついたことやん。」




水野: 「手順や。名前を付けた瞬間、手順になる。」




坂口: 「雑すぎるやろ。でな、財布も落としたし、避難もあるし、俺のスマホ、さっ

きから圏外。」




水野: 「いつも通りやん。」




坂口: 「圏外が日常のやつ、友達おらんタイプや。」




水野: 「圏外でも出来ることはある。まず深呼吸。次に、連絡は諦める。最後に、現

地対応。」




坂口: 「諦めるの早いねん。」




水野: 「非常時は選択肢を減らすのが強い。」




坂口: 「強いとか言うてる場合ちゃう。ほら、向こう……あれ見て。赤いランプ回ってる。」




水野: 「回ってるな。」




坂口: 「火事ちゃうん?」




水野: 「火事でもいつも通りや。」




坂口: 「火事のいつも通り何やねん。」




水野: 「火事は逃げる。逃げるときは走らない。走らないために、歩く速度を決め

る。」




坂口: 「歩く速度を決める暇あるか。」




水野: 「ある。今決める。坂口、時速3.8。」




坂口: 「誰が守れんねん、そんな微妙なやつ。」




水野: 「微妙やからええ。微妙は日常に近い。日常に寄せるのが非常時対応や。」




坂口: 「寄せたら燃えるって。」




風が強くなって、ベンチの下を小さな紙袋が転がっていく。坂口がそれを追おうとし

て、途中で止まる。




坂口: 「……あかん、あれ、置き忘れの袋ちゃう?中身分からんやつ。」




水野: 「袋は見るな。」




坂口: 「見るなって、気になるやろ。」




水野: 「非常時ほど気になるを切る。いつも通りでええ。」




坂口: 「いつも通り、って具体的に何やねん。今、財布なくて、避難アナウンスで、火事っぽくて、謎の袋あって、圏外で——」




水野: 「全部まとめて一個にする。」




坂口: 「どうやってやねん。」




水野: 「ややこしい日や。」




坂口: 「雑の極みや。」




水野: 「雑に出来るのが強さ。ややこしい日は、やることを一個にする。駅員に聞

く。」




坂口: 「駅員に全部言うん?」




水野: 「言う。『財布落としました。避難って何ですか。火事ですか。袋怖いです。圏

外です』って。」




坂口: 「駅員さん、こっちを避難させるわ。」




水野: 「避難が目的なら成功や。」




坂口: 「成功ちゃうねん。俺は財布を取り戻したいねん。」




水野: 「財布は駅にある可能性が高い。だから駅員に聞く。手順は一緒。」




坂口: 「手順手順って、手順に人生預けすぎやろ。」




水野: 「人生は手順の集合体や。」




坂口: 「もうええわ。ほな今から駅員探す……って、どこおんねん。さっき走ってた駅員、もう消えたで。」




水野: 「消えてない。見えてないだけ。」




坂口: 「非常時に詩人になるな。」




水野: 「じゃあいつも通り、情報を集める。看板、アナウンス、人の流れ。」




坂口: 「人、流れてへんやん。みんな普通に歩いてるやん。」




水野: 「普通に歩いてるなら、いつも通りでええ。」




坂口: 「非常事態ちゃうんかい。」




水野: 「非常事態かどうかは、手順で決める。手順が通るなら日常。」




坂口: 「日常判定が手順依存なん、怖すぎる。」




水野: 「怖いから手順や。」




坂口: 「堂々巡りや。」




水野: 「堂々巡りも、円なら安定する。」




坂口: 「……お前の言ういつも通りって、結局、何も解決してへんやん。」




水野: 「解決は最後でええ。まず崩れないこと。」




坂口: 「崩れてんねん、俺が。」




水野: 「ほな、座る。」




坂口: 「また座らすな。」




坂口は結局ベンチに座る。二人の間に、改札の電子音と、ホームから流れてくる途切れたアナウンスだけが落ちてくる。




坂口: 「なあ……ほんまにこれでええん?」




水野: 「いつも通りでええ。」




坂口: 「……財布、帰ってくるかな。」




水野: 「分からん。分からん時ほど、いつも通りや。」




坂口: 「……ほな、いつも通り、帰る?」




水野: 「……」




坂口: 「……なあ。」




水野: 「……今は、黙る。」




風がもう一段だけ強くなって、膝の上の紙がめくれた。二人はそれを直さず、しばらくベンチの端で同じ方向を見たまま、動かなかった。

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