第1章 灯のない街で、名を呼ぶ

第1話 「鍵の子」レイ

蒼都そうとの朝は、救われたはずなのに、どこか冷えていた。


黒環こくかんが消え去った翌朝。巨大防壁の内側にある街は壊滅を免れていたが、灯りはところどころ欠けたままで、路地には“空洞”になった壁や石畳の痕が残っている。昨日まであったはずの階段が途中から抜け落ち、触れれば指先が宙を切る場所がある。人々は互いの無事を確かめ合いながらも、視線の先では、まだ闇が息をしているようだった。


街の一角は祭壇のように囲われ、門衛もんえいが立ち、誰も近づけないようにしていた。その中心にいるのは、赤子――レイ。黒環のかくが胸に沈み、封印が成立した“鍵の子”だ。


生存確認が済むと、門衛の誰かが小さく安堵の息をついた。けれど、集まった人々の空気は祝福へは向かなかった。助かった喜びより、次に来るかもしれない恐怖が先に立つ。


「鍵がいる限り、黒環は戻る」


誰が言い出したのかはわからない。だがその噂は、傷口に塩を塗るみたいに広がっていく。助かった人たちは、同時に“原因”を欲しがった。恐ろしいものには名前をつけたくなる。そうして、レイは守った英雄ではなく、恐怖を呼ぶ存在として刻まれていった。


――それから数年。


レイは訓練学舎くんれんがくしゃへ通う年齢になっていた。門衛見習いを育てる場所。呼吸を整え、結界を学び、蒼都を守るための手順を覚える場所だ。


だが、レイにとって学舎は“仲間ができる場所”ではなかった。


廊下を歩けば、声が止まる。近づけば、距離ができる。直接言わなくても、避けられているのがわかる。ときにはわざとぶつかられ、笑われ、挑発される。


「鍵の子が来たぞ」

「心音、うるさくすんなよ。黒環が増えるぜ」


そんな言葉に、レイは傷ついていないふりをした。むしろ、わざと騒ぎを起こした。規則を破り、無茶をして、目立ってやる。自分から“問題児”の仮面をかぶるほうが楽だった。そうすれば、拒まれる理由を自分で選べるからだ。


それでも、レイには口癖があった。


「俺は門衛になる。蒼都を守る側に立つ」


言うたびに、周囲は鼻で笑う。守る側? お前が? そんな空気が返ってくる。けれどレイは引かなかった。引いた瞬間、自分の存在がただの“鍵”になってしまう気がした。


やがて、学舎の節目――門衛見習いの適性試験の日が来た。


試験は基礎の確認だ。呼吸制御こきゅうせいぎょで心音を落とし、黒環に反応しにくい状態を作る。次に、簡易結界かんいけっかいで一定範囲を守る。難しい術ではない。だが“守る側”になるための最初の門だ。


周囲の生徒たちは、緊張しながらも手順通りにこなしていく。浅く吸って、長く吐く。心音を静め、印を結び、薄い膜のような結界を立てる。


レイも同じようにやろうとした――その瞬間、胸の奥が疼いた。


鍵穴かぎあなだ。


普段は忘れられるくらい静かな痕が、試験の場の緊張に呼応するように、じくじくと熱を持つ。呼吸を整えようとしても、痛みが意識を引き裂く。心音が乱れる。乱れた心音に、さらに疼きが増す。


「……くそ……!」


結界の線が歪んだ。薄い膜は立ち上がる前に破れ、床に散る。試験官の教官は眉をしかめ、鋭い声を飛ばした。


「失格だ。手順が守れない者に、守護は任せられん」


レイは唇を噛んだ。悔しさが喉までせり上がってくる。けれど、ここで弱さを見せれば、また“鍵の子”として笑われる。だからレイは、乱暴に笑った。


「こんな試験、意味ねぇよ」


虚勢だ。わかっている。自分が一番わかっている。


その時、ただ一人、レイを真正面から見た人物がいた。教官のハガネだ。厳しい目をしているのに、見下してはいない。どこか“観察”ではなく、“対話”の視線だった。


試験後、レイが一人でいるところへ、補助教官のミナトが近づいてきた。


ミナトはいつも穏やかで、物腰が柔らかい。生徒の悩みに寄り添う顔を作るのが上手い。だからこそ、レイも最初は警戒を緩めた。


「悔しいだろう。君は……努力しているのに、体が言うことをきかない」


その言葉に、レイの胸が痛んだ。理解されたような錯覚が生まれる。


ミナトは囁くように続けた。


「合格の近道がある。禁庫きんこに眠る“鍵図けいず”を見れば、お前でも制御できる」

「禁庫……?」


禁庫は、門衛機構が封鎖している施設だ。禁忌の文書や遺物が保管されている。近づくことすら許されない場所。


ミナトは“都のため”を口実にした。


「才能がない者を救う手段が、そこにある。君が制御を学べば、蒼都にとっても利益だ。……君だって、守る側に立ちたいんだろう?」


その言葉は、レイの弱い部分を正確に刺した。


認められたい。笑われたくない。拒まれたくない。


けれど、それよりも先に、レイは本当に思っていた。


――守れる側になりたい。


だから、その夜。レイは禁庫へ向かった。


門衛の警戒を避け、影の薄い路地を抜け、封鎖扉の前に立つ。手が震えた。だが震えを止めようとするほど心音が上がる。心音が上がると胸が疼く。悪循環だ。


「……俺は、門衛になるんだ」


小さく呟いて、レイは扉の隙間に指を差し入れた。古い鍵機構をこじ開け、警報札を外し、歯車の音を殺す。見習いの知識を、禁庫破りに使う自分が嫌になった。けれど、ここで引き返せば、ずっと“鍵”のままだ。


内部の棚から、巻物を一つ抜き取る。表紙に刻まれた文字――鍵図けいず


レイは巻を抱えて逃げた。


盗難はすぐに発覚した。門衛機構が非常対応に入り、街に人が走り始める。巡回灯が増え、通路が封鎖され、捜索班の足音が蒸気の響きと混ざって広がっていく。


「鍵の子が禁庫を破った」


その事実は噂に燃料を投下した。人々の恐怖は再び形を持つ。あの子がいるから、また何かが起きる。やっぱり危ない。やっぱり――。


レイは、蒼都外縁がいえん廃路はいろへ身を隠した。


黒環の痕が残る場所だ。壁の一部が空洞になっており、手をつけば抜け落ちそうで、足元も崩れやすい。誰も近づきたがらない。だからこそ、隠れるには都合がいい。


そこでレイは鍵図を開いた。


中には、図と手順が細かく記されていた。心音と呼吸を“錠前”として整えること。鍵穴に干渉するための印――鍵印けいいん。黒環の核錠かくじょうを“開け閉め”するための段階。乱れれば危険が増すこと。焦りは鍵を壊すこと。


レイは読みながら、何度も呼吸を繰り返した。吸って、吐く。心音を落とす。胸の疼きを、力で押さえつけず、呼吸で包む。指先で印を結ぶ。失敗する。焦る。心音が上がる。疼きが増す。やり直す。


気づけば、指先が擦れて血がにじんでいた。


それでもレイは止めなかった。


「認められたい」よりも前に、「守れる側になりたい」――その願いだけが、レイを立たせていた。


そこへ、足音が近づいた。


追ってきたのは、教官ハガネだった。鎧の擦れる音と、落ち着いた呼吸。隠れようとしても無駄だとわかる気配だった。レイは身構え、巻を抱え直した。


「返せ」


ハガネは短く言った。けれど、怒鳴らなかった。レイを“犯罪者”として扱うでもなく、“厄介者”として切り捨てるでもない。


ハガネは言った。


「胸が疼くのか」

「……うるせぇ」


レイは突っぱねた。だがハガネは引かない。


「制御できない疼きは、恐怖より厄介だ。お前はずっと一人で耐えてきた。……それで、強くなったつもりか?」


レイは言い返せなかった。図星だったからだ。強くなったふりをしていただけだ。誰にも頼れないから、騒いでいた。


その時、廃路の奥から別の足音が来た。


ミナトだ。


穏やかな顔のまま、距離を詰めてくる。けれど、その目には温度がなかった。まるで“目的物”を回収しに来た作業者の目だった。


「うまくやったね、レイ。鍵図は……役に立ったかな?」


ハガネが一歩前に出る。


「お前が仕組んだのか」

「仕組む? 違うよ。導いてあげただけだ。彼は救われたかったんだろう?」


ミナトは笑い、そして簡単に本性を明かした。


「鍵図が目的じゃない。必要なのは、レイの胸の核――黒環の“核錠”そのものだ。あれを開ける。開けば、黒環は……もっと使える」


レイの背筋が凍った。


ミナトは続ける。


「君は鍵だ。道具だ。君の意思なんて関係ない。開ければいい。閉めればいい。蒼都のためにね」


言葉が、レイの心を折ろうとする。今まで浴びてきた視線より、ずっと鋭く、ずっと冷たい。自分が“人”ではなく“装置”として語られている。


ハガネが、はっきりと言い返した。


「違う。こいつは道具じゃない」


その瞬間、ミナトは攻撃に移った。印を切り、鋭い衝撃が走る。廃路の瓦礫が跳ね、空洞の壁が震える。狙いはハガネ――邪魔者の排除。


ハガネは咄嗟にレイの前へ出た。


衝撃が鎧を叩き、ハガネの身体が揺れる。血が滲んだ。膝が沈む。それでもハガネは倒れない。倒れれば、背後のレイが直撃するからだ。


「……下がれ、レイ」


その声は命令ではなく、守るための言葉だった。


レイはその背中を見た。


自分のせいで、誰かが傷ついた。自分がいるから、誰かが危険になる。今までの噂が脳裏をよぎる。怖い。震える。逃げたい。


でも、目の前の人は――逃げずに庇っている。


ハガネは振り返らずに言った。


「お前は道具じゃない。お前は……お前だ」


その一言が、レイの中の“錠前”を整えた。


震えが消えたわけじゃない。恐怖は残っている。けれど、恐怖に飲まれる前に、呼吸が戻った。吸って、吐く。心音が少しずつ落ちる。胸の疼きが、ただの痛みではなく“合図”のように感じられる。


レイは立ち上がった。


「……守る側に、なる」


鍵図で学んだ初歩を、今使うしかない。レイは胸の鍵穴に指を当てた。冷たいはずの皮膚の下に、熱い核の存在がある。


呼吸を合わせ、鍵印けいいんを切る。


空気が一瞬、沈黙した。周囲の灯りが、ふっと消える。闇が戻ったように見えた。


だが次の瞬間、闇の中に“黒い灯”が点った。


ひとつ、ふたつ、みっつ。レイの周囲に、浮かぶように灯る小さな影――影灯かげび。炎ではない。けれど確かに“灯り”で、夜より濃い黒をまとっている。


影灯はレイの動きに同期した。


レイが一歩踏み出すと、影灯が滑るように広がる。ミナトが後退すると、影灯が回り込み、逃げ道を塞ぐ。影灯は輪を描き、拘束環こうそくかんとなってミナトの足首、手首へ絡みついた。


「な……」


ミナトの表情が初めて崩れる。想定より早い。想定より“整っている”。その焦りに、レイは震えながらも言った。


「俺は……開けるだけじゃない。閉める側になる」


拘束は強まり、ミナトの動きが止まる。殺すためではない。逃がさないための制圧だ。レイは必死に呼吸を保ち、心音を抑えた。ここで乱れれば、影灯は暴れる。だから、守るために――整える。


ミナトは歯を食いしばり、拘束の隙間を探した。そして、最後に不気味な言葉を残した。


「鍵は……いつか必ず“開く”。忘れるなよ、レイ」


次の瞬間、ミナトは煙のように姿を引いた。拘束が解けたのではない。引き換えに何かを捨てて、無理やり逃げたのだ。廃路に、嫌な余韻だけが残った。


ほどなくして門衛機構の捜索班が到着した。鍵図は回収され、事情聴取が始まる。禁庫破りは重罪だ。レイへの処分は当然議論された。


「鍵の子がやった」

「やはり危険だ」

「隔離すべきだ」


そういう声も上がった。


だがハガネが証言した。ミナトの誘導があったこと。狙いが鍵図ではなくレイの核錠だったこと。レイは利用されたこと。そして――最後にハガネ自身を守るように動いたこと。


結論は簡単には出なかった。禁庫破りの事実は消えない。レイの“鍵穴”が危険であることも、変わらない。


それでも、ハガネはレイの前に立って、ひとつのものを差し出した。


見習いの証――門章もんしょう


身分証であり、誓いの象徴。胸に着ければ、蒼都の守り手の列に連なる印だ。


「お前は鍵だ。だからこそ、閉める側になれ」


レイは門章を握りしめた。金属の冷たさが、現実の重さを伝えてくる。自分はまだ許されていない。まだ恐れられている。けれど、今夜だけは――誰かが、自分を“道具ではない”と認めた。


レイは蒼都の灯の欠けた街を見上げた。


消えた灯りの穴は、まだ多い。空洞の痕も残っている。けれど、その中で、守る側に立つ道が一本だけ見えた。


物語の第一歩が、そこで始まった。

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