黒環の鍵 —蒼都を守る“開かずの少年”—

黒橋 連

プロローグ 黒環来襲と「鍵」の誕生

蒼都そうとは、巨大な防壁と蒸気機関に支えられた都市国家だった。夜になれば街灯が整然と灯り、外の荒野を寄せつけない――そう信じられていた。


だがその夜、空が裂けた。


雲でも雷でもない。夜空そのものが、薄い紙のように縦に割れて、そこから黒い輪がいくつも落ちてきた。災厄――黒環こくかん。落下した黒い輪は地面に触れると、音もなくほどけるように広がり、街へ染み込んでいった。


最初に異変に気づいたのは、見回りの門衛だった。遠くの路地で、誰かの悲鳴が途切れた。次の瞬間、街角の灯りがひとつ、ぷつりと消えた。蒸気灯の火が消えたのではない。灯りそのものが、ぽっかり抜け落ちたように消えたのだ。


黒環は、人の心音に反応して増殖する。


恐怖で心臓が速く打つほど、黒環は喜ぶように数を増やし、闇を広げた。触れたものは“空洞”になった。壁も、扉も、石畳も、形だけ残して中身を失い、触れた指先がひやりと宙に落ちる。逃げ道に置かれた標識も、橋の欄干も、避難路を示す灯りも――次々と空洞にされ、頼りにしていた道が闇に飲み込まれていく。


人々は走った。息を切らし、子どもを抱え、隣人の手を引いて。けれど走るほど心音は跳ね上がり、黒環はさらに増える。逃げることが、災厄を呼び寄せる合図になっていた。


蒼都の守護者――第七門衛だいななもんえいは、事態が「壁の外」からの侵入ではないと悟った。これは都市そのものを狙う災厄だ。防壁も砲台も、意味を持たない。


門衛たちは都の最深部へ向かった。そこには蒼都の心臓部――炉心がある。巨大な蒸気炉は街の灯りと機械を動かし、国の命脈を握る場所だった。


門衛長アオギリは、そこで最後の策を選ぶ。


黒環を引き寄せる“核”を、一箇所に縛りつける。炉心を起動し、街中に散った黒環の中心を、炉心へ集めるための「餌」にする。都を守るために、都の心臓を囮にする――それが、彼の決断だった。


炉心が唸りを上げると、空気が重くなった。蒸気の熱ではない。闇が熱を持ったように、黒環が炉心へ向かって流れ出した。床を這い、壁を伝い、天井を裂くように集まってくる。闇がひとつの渦になり、炉心の前で巨大な輪を結び始めた。


アオギリは儀式を始めた。


それは門衛だけに伝わる封じの術式だった。炉心の力と、術者の命を燃料にして、災厄を閉じ込める。彼は迷わなかった。守ると決めた街がある。守ると誓った人々がいる。だから――自分の命を差し出す。


しかし、その封印は「器」では成立しなかった。


災厄を入れて閉じるだけでは足りない。黒環は“開く”性質を持つ。封じるなら、閉じるための「鍵」が必要だった。鍵がなければ、封印は形を保てない。術式は最後の瞬間にひび割れ、黒環の核が外へ溢れ出そうになる。


その場に、赤子がいた。


避難の混乱のなかで、門衛に抱えられ、最深部まで運ばれていた幼い命。名はレイ。小さな胸が、弱い心音を刻んでいた。けれどその鼓動は、恐怖に荒れていない。まだ世界の意味を知らない、ただ生きるための静かな音だった。


黒環の核が、ふっと方向を変えた。


まるで鍵穴を探すように、闇の中心が赤子へ寄っていく。誰かが叫んだ。止めろ、と。だが叫びは遅い。黒い輪の核は、レイの胸へ――“鍵穴”のように沈み込んだ。

その瞬間、封印が完成した。


黒環は、音もなく霧散した。街を覆っていた闇がほどけ、空洞になった場所の輪郭が、かろうじて現実へ戻っていく。遠くで消えていた灯りが、ひとつ、またひとつと点り始めた。蒼都は救われた。


そして、アオギリは炉心の前に膝をついた。


命を燃やし尽くした顔に、安堵だけが残っていた。彼は最後にレイを見た。赤子は泣いていなかった。ただ、胸の奥に何かを抱えたまま、静かに息をしていた。


翌朝。


人々は生き残った。家族を見つけて泣き、失った者を悼み、崩れた路地を片づけ始めた。けれど、助かったという実感が広がるより先に、別の感情が街を満たした。


恐怖だ。


黒環は消えた。だが、それを封じたのは赤子の胸だった。つまり、黒環の“核”はまだこの街にある。しかも、鍵として生きる存在がいる限り、黒環は「開く」可能性を捨てない。


誰かが囁いた。


「あの子がいる限り、黒環はまた来る」


その言葉は、蒸気より早く街に回った。感謝より先に、疑いが立ち上がった。守られたはずの命が、次の災厄の引き金になるかもしれない――そんな想像が、人々の心音をまた速くした。


こうしてレイは、蒼都を救った英雄ではなく、災厄を開け閉めできる唯一の「鍵」として生きる運命を背負う。


誰にも祝福されず、誰にも理解されないまま。


孤独な出発点が、静かに定まった。


物語は、そこで始まる。

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