1話 泡沫のアルト

 薄暗いダンジョンの最深部に、腐臭が漂っていた。

 苔むした石壁には無数の爪痕が刻まれ、天井から垂れる鍾乳石の隙間を、青白い燐光が這うように照らしている。足元には砕けた骨が散乱し、踏むたびに乾いた音を立てた。


 ここは大陸有数の危険地帯、『嘆きの坑道』。S級冒険者でさえ生還率が3割を切る魔窟である。


 その最深部に、一人の青年が立っていた。

 黒髪に、鉄色の瞳。質素な革鎧を纏い、腰には使い込まれた剣を一振り。派手さのない出で立ちだが、その眼差しだけが異様な密度を帯びている。


 アルト。またの名を『泡沫のアルト』。

 大陸最上位ギルド『泡沫の夢』のエースにして、現存する冒険者の頂点に立つ男。

 彼の前方、暗闇の奥から地響きが伝わってきた。


「グルォォォォ――ッ!」


 咆哮と共に、闇が割れた。

 現れたのは、S級モンスター『屍竜(しりゅう)グラナド』。全長20メートルを超える腐竜が、腐敗した翼を広げて突進してくる。その背後には、同種の幼体が12体。群れでの襲撃だった。


 並の冒険者なら、悲鳴を上げる暇もなく喰い殺される。

 だが、アルトは眉一つ動かさなかった。

 静かに剣を抜く。刃が燐光を反射し、青白く煌めいた。


「――来い」


 呟きと同時に、アルトの姿が消えた。

 いや、消えたのではない。人間の目では追えない速度で動いたのだ。


 次の瞬間、屍竜グラナドの首が宙を舞っていた。

 鮮血が噴き出す間もなく、アルトは既に次の標的へ向かっている。スキル【瞬迅】が彼の身体を音速の域まで加速させ、スキル【断罪】が敵の弱点を正確に捉える。


 1体、2体、3体――。

 幼体が次々と両断されていく。どれほどの爪が振り下ろされようと、アルトの身体には掠りもしない。スキル【回避の魔眼】が、全ての攻撃を自動で見切っていた。

 最後の1体が地に伏せるまで、わずか12秒。

 13体のS級モンスターが、たった一人の人間に殲滅された。


 アルトは剣についた血を振り払い、鞘に納めた。

 周囲には屍竜の死骸が転がり、生臭い蒸気が立ち上っている。常人なら吐き気を催す光景だが、アルトの表情は変わらない。

 ただ、その眉間には深い皺が刻まれていた。


「……まだ遅いな」


 誰に言うでもなく、呟く。

 拳を握り、己の手を見つめる。

 傷一つない掌。それが今は、ひどく歯痒かった。

 S級モンスターの群れを単独で殲滅しても、達成感はない。喜びもない。あるのはただ、まだ足りないという焦燥だけだった。


       *


 ダンジョンを出ると、眩しい陽光がアルトの目を射た。

 外は穏やかな昼下がりだった。青い空に白い雲が流れ、遠くの丘陵地帯では家畜の群れがのんびりと草を食んでいる。


 魔王が滅んで100年。

 世界は平和だった。かつて大陸を恐怖で支配した魔王軍は歴史の彼方へ消え去り、今や魔物の脅威は限定的なものとなっている。ダンジョンは冒険者ギルドによって管理され、討伐依頼は一種の産業として成り立っていた。

 アルトはダンジョンの入口に設置された転送陣を踏み、光に包まれた。


 次の瞬間、彼の身体は数百キロ離れた王都の一角に立っていた。

 目の前にそびえるのは、白亜の巨大建造物。大陸最上位ギルド『泡沫の夢』の本部である。


 世界に七つしか存在しない大陸最上位ギルド。その中でも『泡沫の夢』は最古にして最大の規模を誇り、所属する冒険者は300名を超える。全員がAランク以上の精鋭だ。


 アルトは慣れた足取りで正面扉を押し開けた。

 広大なロビーには、依頼掲示板を眺める冒険者や、酒場で談笑する者たちの姿がある。アルトが入ってくると、あちこちから視線が集まった。


「おう、アルト! 帰ってきたか!」


「相変わらず早えな。もう終わったのか?」


「さすがはエース様だ」


 声をかけてくる仲間たちに、アルトは軽く手を挙げて応える。


「ただいま。みんな、今日も元気そうだな」


 穏やかな笑顔。それが彼の普段の表情だった。

 ギルド最強の冒険者でありながら、威張ることもなければ、偉そうにすることもない。誰に対しても丁寧で、後輩の面倒見も良い。それが『泡沫のアルト』という男だった。


「アルト様、お疲れ様です!」


 受付カウンターから、若い女性職員が駆け寄ってきた。依頼の報告書を受け取るためだ。


「ありがとう、マリナさん。はい、これ」


「『嘆きの坑道』の屍竜討伐……13体撃破、ダンジョン最深部の浄化完了……」


 報告書を読み上げるマリナの目が見開かれる。


「え、13体全部お一人で……?」


「うん。群れで来たから、まとめて片付けた」


 何でもないことのように言うアルトに、マリナは絶句した。

 S級モンスター1体を倒すのに、通常はAランク冒険者が5人がかりで挑む。それを13体、単独で。しかも、傷一つなく帰還している。

 もはや人間の所業ではなかった。


「あ、あの、本当にお怪我はないんですか?」


「うん、大丈夫。ありがとう、心配してくれて」


 アルトは柔らかく微笑んだ。

 その笑顔にマリナの頬が赤く染まる。ギルド内でアルトに想いを寄せる者は数知れない。しかし、アルト自身はそうした視線に気づいているのかいないのか、誰かと特別な関係になることはなかった。


「じゃあ、俺は少し休んでくる」


「は、はい! お疲れ様でした!」


 アルトはロビーを横切り、奥の階段へ向かった。

 その背中を見送りながら、古参の冒険者たちが囁き合う。


「……化け物だな、あいつは」


「ああ。あれで昔は雑魚だったってんだから、信じられねえよ」


「努力であそこまでいけるもんかね」


「いけるんだろうな、アルトなら」


       *


 ギルド本部の最上階。

 エース専用の私室に入ると、アルトは窓際の椅子に腰を下ろした。

 西日が差し込む部屋は広く、調度品も上等なものが揃っている。富と名声の証だ。

 壁には各国から贈られた勲章が飾られ、棚には高価な魔道具がずらりと並んでいる。


 だが、アルトの目はそれらを素通りし、窓の外へ向けられていた。

 夕焼けに染まる王都の街並み。行き交う人々の姿。平和な日常の風景。

 その全てが、ひどく遠いもののように感じられた。


「……最初は、楽しかったんだけどな」


 誰にも聞こえない声で、呟く。

 10年前の記憶が蘇る。

 まだ駆け出しの冒険者だった頃。才能もなく、スキルも持たず、仲間にすら見捨てられた日々。

 ダンジョンの奥で一人、死にかけたあの夜。


「――お前は弱いから、足手まといだ」


 かつての仲間の言葉が、今も耳にこびりついている。

 Eランクの雑魚。誰もがそう呼んだ。

 実際、その通りだった。戦闘センスもなければ、魔力の才能もない。普通なら、そこで諦めて冒険者を辞めていただろう。


 だが、アルトは諦めなかった。

 諦められなかった。


 ダンジョンに置き去りにされた夜、アルトは這いずるようにして出口を目指した。

 全身に傷を負い、血を流し、何度も意識を失いかけながら。

 それでも、死にたくないと思った。


 まだ何も成し遂げていない。このまま終わるのは嫌だ。

 そう思った瞬間、身体の奥底から何かが湧き上がってきた。

 それが、アルトが初めて覚醒させたスキル――【不屈】だった。


「あれから10年か……」


 窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。

 あの日から、アルトは変わった。

 毎日を修行に費やした。人の3倍努力し、5倍考え、10倍の時間を費やした。才能がない分、量で補うしかなかった。


 骨が折れても、血を吐いても、倒れても。

 翌日にはまた立ち上がり、剣を振った。


 そうして少しずつ、スキルを習得していった。【瞬迅】、【断罪】、【回避の魔眼】、【不死鳥】――。

 どれも生まれ持った才能ではない。血の滲むような鍛錬の末に、自らの手で掴み取ったものだ。

 気づけば、アルトを見下していた者たちは、全員がアルトを見上げるようになっていた。


 だが――。


「まだ足りない」


 アルトは拳を握りしめた。


「俺はまだ強くなれる。もっと上がある。でも……どうすればいいんだ」


 ここ数年、成長の実感がなかった。

 どれだけ修行を重ねても、新しいスキルは覚醒しない。技の精度は上がっても、根本的な力の天井にぶつかっている感覚がある。


 S級モンスターを相手にしても、手応えがない。世界中のどんな強敵と戦っても、退屈を感じてしまう。


 それは傲慢ではなかった。

 純粋な、渇きだった。

 もっと強くなりたい。もっと高みを目指したい。そのためなら、どんな努力も惜しまない。

 だが、その方法がわからない。


「俺に教えてくれる師匠も、もういない……」


 かつてアルトを鍛えてくれた老剣士は、3年前に他界した。

 その老剣士が最後に残した言葉がある。


『お前はもう、わしが教えられることは何もない。だが、覚えておけ。本当の強さは、まだお前の知らない場所にある』


 本当の強さ。

 その言葉の意味を、アルトはずっと考え続けていた。


「王立ピアレス学園……」


 ふと、その名前が頭を過った。

 噂でしか聞いたことのない、伝説の学び舎。深淵魔導と呼ばれる禁忌の技術を教え、極めた者だけが卒業を許されるという。


 だが、その所在地は秘匿されており、入学する方法も不明だ。そもそも、本当に存在するのかすら定かではない。

 アルトは目を閉じた。

 今日も、答えは見つからない。


「……少し、休むか」


 椅子に深く身体を預け、意識を手放そうとしたその時――。

 階下から、轟音が響いた。

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