第2話
喫茶店を出ると、春の暖気が穏やかにあった。空は背後に残してきた澱んだ空気が嘘のように開けており、行き交う車の向こう、田畑は土を起こされて、のどかな土色を山裾までに続けている。
秋山は店の前に置いていた自転車を進ませ、少しばかり店舗を眺めてから漕ぎだした。国道にチェーン店は並び立っているが、その道を僅かに逸れてしまえば、彼の生まれ育った街の息遣い、土の臭いというものが、風に乗って鼻を擽ってくる。
『こんな風景だろう』と彼は思った。自分はこの街と同じく、ありふれた地方都市のような人間で、特徴と呼べるだけのものはない。名所や名産といったものも、言ってしまえばつまらない、寧ろ主張すること自体が陳腐に思えるようなもので、精々が駅前の、年月に色褪せた観光マップに、誰の視線も受けぬまま示されるだけである。
しかし、黒木薫と相沢遥という人間は違った。それは彼が遠くに思う都会に似て、そこに確かにあると誇れるものである。解説を付け、観光案内所を設置し、県の内外から客が来るような人間だろう。
こういった思考もまた酷く陳腐に思えて、彼はペダルを漕ぐ足を強くした。国道の隣にさえ田畑が広がる田舎町の、その対比として都会を思い憧れることは全く陳腐だった。ましてや、それを人間の形容として使うのはいかにも田舎者染みた感慨であり、思えば思うだけ下らなさが込み上げてくる。
それでも似合わないのは確かだとも思った。あの二人にこの街は似合わない。
起こされた土の、肥料の混じった香ばしい、糞尿にも似た臭いの中を突っ切って、秋山は西の方、住宅街に挟まるようにして広がる公園に行き着いた。こぢんまりとして、ひっそりとしている。桜はこんなにも舞っているというのに、見物の客は一人もおらず、ただ新城可苗だけがベンチに座って、地面をじっと見つめていた。
新城は車輪の音を認め、顔を上げると、途端にぱっと笑顔を見せた。「どうでしたか、先輩」
「黒木さんと相沢さん。二人と無事、決別できました?」
「決別か」
その単語の不慣れな感じに、秋山はどうにも似合っていないと思った。『決別!』内心に繰り返した言葉の語感はきっぱりとしていて爽やかだった。しかし今し方行われた会話は、爽やかさなど欠片もなく、寧ろ曖昧な複雑さを増すばかりである。
自転車をベンチの傍に止め、しかし座ることなく、彼は桜を眺めた。胸の内の蟠りを、更に煮立たせぬ程度には綺麗である。
「その様子を見ると、上手く行かなかったようですね。不甲斐ない」
「悪かったな。お前の助言の通りにはできなかった」
「まあ、良いですよ。どうせそんな事だろうとは思っていましたので」
「しかし、思いは告げられたのでしょう?」と新城は言った。「それだけでも十分でしょう。何時までも我慢しているよりも、その方が健康に良いですから。もっとも、先輩の健康などどうでも良いですがね!」
その率直な言いように秋山は苦笑した。口車に乗ったとは思っていなかった。ただ提案があった。その提案を切っ掛けとして、自分は本音を吐露したに過ぎない。
新城は、今更ながらに桜を見上げ、その柔らかな落下を掌に捕まえると、「こうあるべきですよね」と言った。
「黒木さんも相沢さんも、折角、芸術的才能に溢れているというのに、つまらないところに囚われてしまって蕾のままです。それだから新人賞を獲ったというのにいまいち先に繋がっていない。よく人は、あの二人のことを天才だと褒めちぎりますが、高校生での新人賞などそれなりに数はあるんです。純文学での最年少受賞者は中学生ですし、絵など今の世にどれだけ有望な新人が溢れていると思いますか」
「相変わらず口さがないね、お前」
「期待の裏返しですよ。そして後輩から先輩にかける激励でもあります」
新城は秋山達の一個下の高校一年生で、かつて同じ中学の文芸部と美術部に属していた。陸上部に属していた秋山よりも、それらの部活にそれぞれ属していた黒木と相沢の方が親しいだろう。
しかし、新城はその二人に比べて特に目立った才能も無く、そういう意味では秋山の立場に近かった。だが彼女は「相変わらずのでくの坊」と秋山を口さがなく言って、長々とした溜息を吐いた。
「あのお二方に共通しているのは、何か心の奥にある確かなものを、ずっと大事にして見せたがらないところにあります。中身を見せていないんですよ。垣間見える部分があるのが一層やきもきさせる。それなのに一定の評価を受けるのは、才能による技術と言えば格好が付きますが、それだって結局は小手先ですよ。私はもっと心の奥底から花開いたものを見たいんです」
「厄介ファンだね」
「熱烈なファンです。だから苦労してその確かなるところ、先輩を離してみせようというんじゃないですか」
新城が秋山に提案したのは、彼女の芸術的熱情による、悪趣味とも呼ぶべき離間策だった。即ち、黒木と相沢の心の拠り所たる秋山を、その二人の元から離すことにより、芸術的な爆発を引き起こす。「依存ですよ、依存!」と新城は以前から秋山に語り、中学時代から度々文句を言っていたものだが、秋山は本気にしなかった。あの二人が自分に依存しているなど、どうしてそこまで自惚れることができるだろうか。
しかし新城の懸念は、依存という言葉とはまた違った形で秋山に理解された。つまり、競争のトロフィーという意味である。彼女らは、自分を愛していると思い込んでいる。大切な物だと思い込もうとしている。そう思えば新城が言う所、『いまいち先に繋がらない』のも、自分を殊更に貴重に思って、その事のみに専心しているのではないかと。
それならば、自分は二人にとって無意味どころか害悪である。それも秋山当人にとっては全く不本意な、不条理とも呼ぶべき害悪のなり方である。自分が悪いと言われるのなら、自分は喜んで二人から離れよう。
「まあ、心は痛んだ。可哀想なことをしたとは思っているし、ちょっと思い上がりすぎた言葉だったのかもしれない」
秋山は苦笑して、しかし思い返すのは黒木の言葉だった。『あれは焚き付けてしまったかもしれない』しかし一方でこうも思った。『本気になろうとすればこそ、俺が下らない事にも気が付いて、何時しか遠くに行くだろう』秋山は黒木と相沢の、自分をどうにでもやり込めることのできる頭の良さを信じていたし、その頭の良さによって勘違いにもすぐ気が付くものと考えていた。
「まあ、可哀想なのは先輩もですけどね。私もちょっと心が痛みます」
「お前が?」
新城の言葉を意外に思って目をやると、彼女はベンチから立ち上がって、その胸元、一年生の青色のリボンを見せ付けるようにしながら秋山に近付いた。少し明るい髪色と、同じく琥珀を含んだ瞳の色が桜の中、華やかに輝いて見えている。
新城は一歩近付いて、秋山の首筋に頭を寄せた。「どうした」と彼は言った。「体調でも悪いか」
その表情の変わらぬ平熱な言葉に、新城は顔を上げて笑って言った。
「何せ先輩は、このままだと、一生恋人なんてできませんからね。そういう意味ではとても可哀想な被害者です」
「随分と最悪な事を言う」
「事実ですから。可愛い後輩に近寄られて、鼻の下を伸ばさないようではね」
「ああ」
秋山はばつが悪そうに頭を掻いた。「こういう時、顔を赤くするべきなのか」と、男子高校生が言うには奇妙な事を言って、「ロボットですか貴方」と新城を呆れさせた。
「全く、お二人は本当に人が悪いですね。あの顔で、生まれたときからべたべたと引っ付いていれば、こんな可哀想なものを生んでしまうのです。私だってね、そりゃ、お二人の影には入りますが、それなりに人気はあるんですよ? 才色兼備という言葉だって、私の学年では私一人のためにあるようなものです」
「それを自分から言ってしまえば台なしだ」
「先輩以外には言わないので大丈夫ですよ。良かったですね? 美少女の本音を聞けて。たぶんこれが一生ものになるでしょう」
「そんなわけがあるか。俺だってな」
「おや」
新城は意外そうな顔を浮かべ、今更ながらに秋山から離れた。
「先約がおありで? それなら、彼女さんに失礼でしたね」
その意地の悪い笑みに、秋山は苦々しげに「ないが」と言って、失笑を買いながらも、「その気はある。これからだよ、これから」と気張って言った。対して、新城は失笑しながら言った。
「その気があるんですね。へえ」
その翌日。学年が上がり、クラス替えがあったので、秋山はこれまでとは違った顔の中に授業を過ごし、そして難なく打ち解けていった。といっても、彼に向けられる興味と言えば、やはり別のクラスの黒木、相沢が多くを占め、そのために彼は彼女らの紹介に多く時間を割き、自分の紹介はそのおまけとして付け加えるのが精々だった。
しかし人間、初対面の相手と話すときは大概そんなもので、耳目を引く話題を一通りこなしてしまえば、後は語る秋山と同じく、二人を遠く見上げるばかりである。秋山は小学校中学校と通し、その事をよくよく知悉していたので、機嫌を悪くすることもなく、その日は黒木と相沢の紹介者を務めた。こういった点で言えば、彼は二人の幼馴染みという立場の重要性と陳腐さをよく知っており、それを利用して交友を広げることもあった。
そのように、秋山東治という人間は、幼馴染みと離れた場所ではごく普通に高校生をやっていて、ただ時折、こういった初対面の人間や、彼女らの特殊性が発揮されるイベントなどに、思い出したように幼馴染みとして語られるのが常である。その時にしても彼の振る舞いは実に一般的なそれであって、波風立てず日常に没していく有様は、他人に『まあそんなものか』と、ちょっとした落胆と共に、かつて思った羨望と嫉妬とを馬鹿馬鹿しく思わせるのだった。
一方、黒木と相沢の様子は、一見して普段と変わらぬようだった。新クラスの面々に今更ながらの自己紹介をして、机に人を集めている。秋山が移動時に通りがかった時も、二人共に普段通りの微笑みを浮かべ、如才なく集団を沸かせていた。一見して昨日の激情などなかったようにして、目付き、口の開き方、言葉遣いも落ち着いている。
ただ相沢の方は、少しばかり視線を散らせていた。会話の最中、不意に瞳がぐらついて、教室の扉の向こうへと注がれる。それが昼食時、折り悪くも秋山の目とかち合って、瞬時に硬直した。
「あ」と反射的に言葉が漏れて、繕うように唇が歪んだ。彼女は笑おうとしていたのだ。そんな笑みを秋山は印象的に思った。今まで見たことのない唇の形だった。
それでも、一言と笑みに留まるのなら、何時かは無言に変わるだろう。秋山はそう思って教室に戻った。授業を過ごした。放課後になった。顔ぶれが変わっただけの、今までと何ら変わらぬ一日だった。
だが、ホームルームを終えて、新入生に向けた勧誘をしようと、陸上部の友人らと共に部室へ向かう道すがら、ふとして秋山に声が掛けられた。黒木薫の声である。
「少し良いかしら」と、黒木は廊下の中央、待ち構えるように佇んでいた。間髪入れず、「彼に」と、秋山以外の陸上部の面々に微笑みを向けると、それだけで浮ついた頷きが返されて、秋山が何を言う暇もなく、彼らはさっさと過ぎ去ってしまった。
秋山は「置いてくなよ」と一応声を掛けたが、こういった少女の微笑みというものは、男子高校生の友情なんぞを歯牙に掛けぬ威力があるもので、寧ろ友情のために置いて行くのだと、羨ましいものだと、飛ばす揶揄の中に微笑みかけられた嬉しさ、恥ずかしさを覆い隠して、彼らの足は早まるばかりだった。
「流石、陸上部ね。頼んでもないのに早い」
「あの中に競歩をやっているやつはいない」
「競歩ってあれ、どういう紆余曲折があって目指すようになるのかしら」
「それを言うなら何でもそうだろう。お前の絵にしたって、誰かにしてみれば、競歩と同じく理解不能な競技だ」
「競技じゃないわよ」
「そう。競技じゃないものをやる人間が、理解できない人間もいる。世の中にはね」
言って、秋山は「それで?」と聞いた。「理解できる話だと嬉しいんだが」
そのちょっとした皮肉にも黒木は表情を変えず、周囲の、何時も通りに向けられる無数の目をぐるりと見渡すと、「美術部の部室に行きましょう」と言って、背を向けた。彼女は全く振り向かず、秋山が当然に付いてくるものと思っているような歩き方で、廊下の生徒達をモーセのように割っていき、秋山もまた、当然にその背を追いかけた。
ドアノブに鍵を差し込んで、黒木と秋山が部屋に進み入ると、中には誰もいなかった。「他には?」と彼が聞けば、「後輩の勧誘に行っているに決まっているじゃない」と返され、直ちに部屋に鍵が掛けられた。そればかりか、黒木は唯一のドアを背にして、まるで秋山を閉じ込めるような格好をして、「どうぞ」と、部屋の中央に置かれた長テーブルに接したパイプ椅子を勧めた。
「お菓子もあるし、なんだったら、お茶も淹れるわ。どうぞ、ゆっくりしていって」
「何時も思うが、そんなんで部活をやっていけるのか?」
「文芸部だって同じようなものだと遥は言っていたわよ。それにお隣さんの茶道部は、それが主な活動なの。羨ましい?」
「羨ましいね。特に夏なんかはクーラーが効いていて、心地良いだろう」
「だったら貴方も入れば良かったじゃない」
「男子が文化部に入るって、なんかな」
「あら、いかにもな体育会系の差別。今日日流行らないわよ」
「俺は気にしいなんだ。分かるだろ? 昨日言った通りだよ」
秋山がそう言いながら椅子に座ると、黒木は不意に口を噤んで、ややあって、「そうね」と言った。
「だから、私も昨日言った通りのことをするのよ」
「慈悲は?」
「ないわ」
黒木は扉から背を離し、長テーブルの上、置かれた鞄を手にした。そしてその中、彼女の家庭環境にしては、いかにも高校生らしい財布を取り出すと、ぱっと紙幣を翻させた。
秋山は眉間に皺を寄せて、これ以上ないほどに嫌悪の表情を示した。それにも関わらず、黒木はにこにこと嬉しそうに笑って、揺らめく紙幣を彼の鼻先に見せ付ける。
「はい、五千円」
「金を取り出してきたのは最悪だが、それにしても安かねえか」
「あら、じゃあ何円だったら良いのかしら」
「何円でも良くないし、俺を失望させるにはこれだけで十分だよ。それなら安心だが、安心を通り越してムカつくぞ」
鼻先を擽る紙幣を払いのけ、秋山は立ち上がった。その背中に向けて、「どうして五千円だと思う?」と黒木は言った。
秋山が振り返った先、黒木は依然としてにこにこと笑っていた。「どうしてって」秋山の声に重ねて、「私が、たかが五千円で貴方の歓心を買えるとは到底思っていないって、分かるでしょ」と彼女は言う。
「だから、どうしてだと思う?」
彼女は紙幣を持ちながら、少しずつ互いの距離を詰め、そう問いかけた。
「十年前」と秋山は言った。彼は思い出していたが、しかし依然として分からなかった。
秋山東治は比較する 生しあう @nameshowyou
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