秋山東治は比較する

生しあう

第1話




 秋山東治が自認するに、自分に特徴と呼べるほどの特徴は備わっていない。それでも一つを言うのなら、やはり己自身のことではなく、幼馴染みの二人と親しいという事だけが挙げられる。


 黒木薫と相沢遥という少女は、秋山と同じ高校二年生であるが、彼とは違って常に人々の中心にあった。それは各々の得意分野に打ち立てた名声と功績によるものであると同時に、生まれながらの性のようなものである。


 ある人間が他の人間と違うと思わせるには、競争に打ち勝つことが一番だろう。厳然たる順位は多数の中で一つを決める。一つでなくとも傑出したものを見出すことになる。しかし黒木と相沢に結果など必要なかった。或いは存在そのものが結果だった。才色兼備と、彼女らを形容する文句は、外見という意味ではどう足掻こうとも天稟であるし、才能を育てた努力もまた、それを育てる土壌が与えられていたという意味では、やはり家庭環境という天稟だろう。そして、そのような才能を生まれつきに宿して育った人生もまた一種の天稟と言える。


 容姿に優れたものの人生は往々にして幸福であり、才気に優れた人生もまた同じである。彼女らは生まれながらに幸福という結果を与えられ、幸福という結果を積み上げながら育ってきた。持たざる者とはかけ離れた人生を歩み、人生の始めから勝者だった。


 しかし、だからどうしたという話でもある。


 たとえ黒木薫に絵画的才能が備わっていようとも、相沢遥に文学的才能が備わっていようとも、そして、その教養の土台となる生活環境が国内でも有数に優れ、その結果としての成長だろうとも、秋山東治には関係のない話だった。羨むことも、所詮は生まれかと冷笑することもない。ただ遠く思うばかりである。夜空に瞬く星の二つ、それがいくら輝いていようとも、地上は地上で忙しく、時折綺麗だと思いこそすれ、手が届くとは思っていない。


 だから秋山は「俺には関係ないだろう」と言った。始業式が行われた春の日。その放課後、黒木と相沢の二人から、共に「付き合って下さい」と言われた喫茶店の席で。


 黒木は目を細めた。鋭利な瞳。胸まで落ちる黒髪。鴉の濡れ羽。暖色の明かりを受けてなお白い肌。何よりも額は常よりも神経質に歪められている。対面に座す秋山を切り刻むような冷たさ。


 相沢の口元はよく動いていた。言葉を発しようとして飲み込む動きに動揺が現れている。肩の辺りで切り揃えられた黒髪が揺れる。常の皮肉っぽい目付きは丸く、まじまじと秋山を探っている。


 珈琲の匂い。木目調の壁。天井に回るシーリングファンの音。窓から注ぐ春の日差しが二人の顔に陰影を作っている。学生服越しに感じるレザーソファーの感触に身体を埋め、秋山は言った。


「分かっている。本気だろう。お前達は本気で俺と付き合おうと言うんだ。しかしその本気は決して恋心から来るものではないだろう。あると言うならそれは錯覚だ。競争心から来る錯覚だ。俺はお前達の事をよく知っている。表面上は仲良くしているが、その奥底には互いへの競争心があるんだろう。ずっとだ。お前達はずっと互いだけを敵だと思ってきたんだ。それ以外は敵にならず、眼中にないからな。しかし幸か不幸か、お前達が進んだ道は違っていた。絵画と文学は、交わりこそすれ、優劣を決めるものではない。かつて徒競走や勉学に競った事もあり、今も勉学においては常に一位を競っているが、それにも遂に飽きたんだろう。お前達は遂に互いの優劣を決めてやろうと言うんだ。その格好のトロフィーが、都合の良い判定機が俺だろう」


 訥々と言って、秋山は珈琲を口に含んだ。砂糖一つもなく、黒いだけの表面をじっと睨む。


「だが、俺には関係ない。お前達は児戯のような競争に飽き、決着を付けようと思ったんだろうが、俺だって飽きているんだ。これが普通の高校生だったなら、お前達の取り合いの対象となることに喜びも見出せただろうが、残念なことに俺はお前達の幼馴染みだった。未だに、どうして同じ日に同じ病院で生まれたのかと後悔するが、しかし原因は母さんではなくお前達であり俺だろう。もう十七年になる。その十七年間を延々と付き合わされて、俺は飽きた。遂には告白だ。愛だの、恋だの、そういったものが向けられると思うほど、俺は自惚れちゃいない。そう思うことにも飽きたんだ。そして、そういった問答に煩わされる事にもな」


 秋山は顔を上げ、二人を見つめた。彼女達は何も言わず、強ばった顔で静止している。テーブルに置かれた珈琲は手を付けられぬまま湯気が消え、照明をぼうっと照らし返している。


「冷や水を浴びせるつもりではないんだ」と、秋山はふと笑みを見せた。


「皮肉とか、言葉で刺してやろうだとか、ましてやこれが復讐だなんて思っちゃいない。先程、お前達の言葉に驚いたのは事実だよ。この機会を狙っていたわけでもない。それこそ自惚れだからな。だが、俺が今言ったことは間違いなく本音だ。少し刺々しかったのは、すまない、謝る」

「それが貴方の──」

「だからこそ」


 黒木が言いかけたのを遮って、秋山は言った。


「お前達に、ほんの少しでも、幼馴染みに対する慈悲ってものがあるのなら、俺を巻き込むのは止めてくれないか。トロフィーなど、良いのがいくらでも転がっているだろう。寧ろ、そっちの方が良いんじゃないか? これまでの成果が影響するのではなく、ゼロからスタートを始めた方が、優劣を付けるのには公平だろう。それなら俺は協力するよ。たとえ人様には趣味が悪いと言われようとも、俺はお前達の幼馴染みだからな。満足するまで、戦えばいい」

「協力って、僕は君が──」

「慈悲と言ったんだ。分かってくれ」


 秋山は頭を下げた。相沢の口元は、またしても何も言えず、複雑に動いた後、閉ざされた。


『どうだろうか』と秋山は思った。これで彼女達は納得するか。恋心と、そう錯覚したものを手放すことは出来るだろうか。『難しいだろう』何せこれは競争だった。一方が離れた隙に、もう一方が絡め取ってしまえば、その時点で決着は付く。自分程度に慈悲を投げ掛けた事を後悔こそすれど、その慈悲を以て勝ちとはしない。そういう二人だった。


 それでも秋山に妙案など思い付きはしなかった。出来るのはただ慈悲を乞う事だけだった。或いは情に訴えかけ、仕方がない奴だと思わせる事。秋山東治の十七年間とは、自分は難事を打開できる人間ではなく、誰かに頭を下げることしか出来ない人間であることを思い知っただけの年月だった。


 暫く沈黙が続いた。互いに椅子に座ったまま、カップを持ち上げることもなかった。『こういった沈黙は苦ではなかったはずだ』と秋山は思った。それだけの間柄だからこそ、彼は今、自らの胸中にある焦燥感を新鮮に思っていた。『これをずっと前から思うべきだったのかもしれない』届かないものに、幼馴染みというだけで結びつくよりも、ずっと遠くから。それこそ相対するだけで落ち着かないような立場であった方が、ずっと幸福だったのかもしれなかった。


「ねえ」


 ふと、黒木が口を開いた。落ち着いた声だった。相沢が不意の音に驚いたように彼女を見つめる。


「私が、貴方よりずっと頭が良いことは、知っているでしょう」

「知っている」

「だからきっと、貴方が思い込んでいるものだって、簡単に説き伏せることができる。遥なら、もっと上手くできるはずね。ルサンチマンだとか、コンプレックスだとか、そういった便利な言葉でラベリングして、道義的な正しさを説いて、そして正しさだけじゃなく、本心から改心させることだってできる」

「……僕は、そんな。東治を何かに当て嵌めたくはない」

「私だってそう。だって、それだと図星になってしまうから。私達が、貴方を暴力的に作り変えて、自分達の都合の良いように使ってしまうから。それが嫌、というよりは、それができてしまうことが苦しいのね。過度な神格化と切って捨てたって、今の貴方は納得しないでしょう」


 黒木は訥々と話した。先に見せた硬直も、語る以前に和らいで、会話を行き着かせる地点を見定めたように目を据えている。対して相沢はまるで落ち着かず、黒木の言葉に余計青ざめて、「いや、いや」と言った。


「さっきから、何を言っているんだよ。東治もそうだけど、薫。人間を、そんな簡単に、言うことはできないだろ。ましてや、僕達は幼馴染みなんだよ。そんな、どちらが上だとか、そういうことはないだろ。ね?」


 そんな弱い笑みを浮かべた取りなしは、しかし秋山には無言を貫かれ、黒木には微笑みで返された。「自覚していないのと、自覚しながら続けたの。どちらがより悪いと思う?」黒木はカップを手に取って、とっくに冷めた珈琲を僅かに口に含んだ。陶器が触れ合う硬い音。


「このように、情に訴えかけることだって。他にも情けないとか、卑屈すぎるとか。貴方をそう言ってしまうことはとっても簡単。専制君主が啓蒙するように、愚かな貴方と賢い私と、そんな立場をこれからも続ける事はね、本当に簡単な事なのよ」

「僕は違う。僕は君を、そんな簡単には思っていない。僕はまず、その前提から違うと言いたい」

「そう思われているのなら、そう思われていると認めなければならないでしょう。私達の態度は、東治にしてみればそうだった。本心が違ったというのなら、態度を反省しなければならないわね」

「反省って……どれが? 僕のどれがだよ。分からないよ。そんな事、思ったこともなかったんだよ。言ってくれよ。どうしてこんな、急に」

「まあ、タイミングが悪かったとは俺も思うよ」


 相沢の非難するような言葉は、認められたというのに、彼女の唇を震えさせた。「もっと前から言うべきだったな」と、この期に及んで優しげな、相手を慮る微笑みは、しかし向けられた彼女の口元に痙攣のようなわななきを引き起こし、その眉間に、憎悪にも似た激情の皺を深めさせた。


「ふざけるなよ」と、常の飄々とした態度からは考えられぬ悪罵がまず飛び出て、「ああそうか。そうだろうね。君はずっと前から、僕を嫌っていたというわけだ。それを隠して笑っていたわけだ!」と、皮肉の体を作ろうとして、やはり感情を覆い隠せぬ言葉が出る。


「君は、君はね、さっきから聞いていれば、なんだ。恋心じゃないとか、トロフィーだとか。勝手にそう思うのは結構だが、随分と滑稽だね! ああそうだ。薫が言ったように、君は卑屈すぎる。同い年の幼馴染みを、神様のように思っているんだ! だけどね、君がそう思っているのなら、僕だって思っているんだよ。君は、僕の全てを委ねて、共に、共にだよ。ずっと一緒にいられるって! 君が僕達にそれを押し付けるならね、僕のこれだって受け取れよ。ええ? 一方だけが押し付けるのは、道理じゃないだろ」


 言い切って、相沢は荒い息を吐いた。秋山はそれを黙って聞いていた。その沈黙が、相沢の瞳にあった、僅かな理知の輝きさえも失わせ、遂には椅子から立ち上がらせた。


「それともあれか! 君はずっと、僕達に何かを押し付けられて生きてきたとでも言うつもりか。そのために一方的な態度が、ようやく許されるべきだと思うのか? ならやっぱりこれは復讐じゃないか! そうじゃないと言うのなら、何とか言ってみせろよ!」

「ねえ、遥」

「なんだ薫。そうだ。君が悪いんじゃないのか? 君がやっていたんだろう。君はどうにも、東治の言うことが分かっているようじゃないか。君なんだ。君が東治にそう思わせていた!」

「私、このままだと貴方を嫌いになってしまいそうよ」


 その言葉に、我に返ったように相沢は唇を閉ざした。「ここで声を荒げるのは迷惑だし、何を言ったところで何にもならないもの」黒木はぐるりと辺りを眺めた。周囲の目が集まっていた。その視線を受け、相沢はおずおずと椅子に座り直し、「ごめん」とか細く呟いた。


 秋山は、場を落ち着けるように珈琲を呷った。長く息を吐く。「外に出て言うべきだったな」と、またしても反省を口にして、「まあ、あれだ」と努めて明るく言った。


「お前達が言うことは、大体その通りだと思う。俺は卑屈すぎるし、お前達を神格化しすぎている。復讐心だって、ああは言ったが、あるかもしれない。言葉が思ったよりも刺々しく出てきてしまった。それは本当にすまなかった」

「……僕だって、悪かったよ。君のことを考えず、声を荒げてしまった。……こういうところが嫌だったのなら、今から直すよ」

「いや、いい。お前は立派な奴だ。何事も卒なくこなしながら熱があるのは美点だろう」

「じゃあ、私の美点は?」

「今、そう聞いてくるほどに何時だって冷静だ。きっと偉くなる」

「冷静ねえ」


 黒木は薄く微笑んで「それで?」と相沢に言った。「それで、遥は反省して、東治の言われるままにするの?」


「自分に非があった。自分は、無意識に東治を傷付けてしまっていた。だから言うとおりにして、今後は近付くこともない。それで良い?」

「……それしかないだろ」

「そう。なら安心したわ。これからも貴方を好きでいられそうで」

「え?」


 相沢は目を丸くして黒木を見たが、直ちにその瞳は震えだした。「君、まさか、僕にあれだけ言ったのに」秋山もまた目を丸くして、しかしその言葉の意味を理解すると、酷く嫌そうに眉間に皺を寄せた。


「まだ続けようというのなら、俺にそう言うのは悪いだろ」

「私、姑息なことは嫌いなの」

「そうかよ」

「そして、それ以上にね、とっても楽しみでもあるのよ」

「楽しみ?」


 黒木はにこにこと笑って、膝に手を置き、背を伸ばし、凛とした姿勢を作りながら、実に嬉しそうにして言った。


「だってこれからは、何の遠慮もなく全部をあげられるから」

「なにを、薫……」

「これは好機なのよ、遥。貴方が私達を、そんなに立派なものだと思って、愛情さえも競争の道具としか見えていなかったのなら、その認識を覆すほどに沢山愛してあげる。そんな言い訳でね、ああ、ようやく、ずっと我慢してきたこと、全部を貴方にできるのね。それがとっても楽しみなの」


 その朗らかな口振りと、紅潮した頬に、相沢は何も言えず、秋山もまた同じだった。


「私をこうしたのは、貴方が悪いのよ」と黒木は言った。そして不意に酷く残忍な、せせら笑うような顔を見せ、言った。


「貴方に良からぬ事を吹き込んだ、誰かさんにとっては残念でしょうけどね」



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