第一章 第三話

四月の柔らかな日差しとは裏腹に、本社の会議室に漂う空気はどこまでも張り詰めていた。新入社員研修。それは、一般的には社会人としての第一歩なのに、わたしには「立ち位置」を嫌でも自覚させられる残酷な場所だった。

大きな窓からは、満開を過ぎた桜の花びらが風に舞っているのが見える。自由だった学生時代との決別を告げるようなその光景を、わたしは重いリクルートスーツの襟を正しながら見つめていた。

研修中、わたしには二人の友人ができた。真由と葵。

真由は、太陽のような明るさを持った子だった。彼女がそこにいるだけで、どんよりとした研修室の空気がふっと軽くなる。講師の厳しい言葉にも物怖じせず、真っ先に手を挙げて質問をする。その姿には、迷いや不安なんて微塵も感じられなかった。

一方の葵は、驚くほど仕事の飲み込みが早かった。配布された分厚い業務マニュアルを、彼女は一度読んだだけで自分のものにしてゆく。パソコンを使った実技演習でも、わたしが操作に手間取っている間に、彼女はとっくに課題を終わらせて涼しい顔をしていた。

「ねえ、愛! 今日の午後のロールプレイング、一緒に練習しない?」

昼休み、真由が屈託のない笑顔で声をかけてくる。

「うん、助かるよ」

わたしは精一杯の笑顔で答えるけれど、胸の奥では小さな棘が刺さったような痛みが走っていた。

三人で並んでお弁当を食べているときも、話題の中心はいつも仕事のことだった。

「さっきの電話応対の練習、葵は完璧だったよね。わたしなんて敬語がめちゃくちゃになっちゃった」

真由が笑いながら言うと、葵は少しだけ照れたように首を振る。

「そんなことないよ。でも、慣れちゃえば意外と単純なパターンだって気づいたかな。次はもっとスムーズにできると思う」

二人の会話を聞きながら、わたしは自分の喉が固く閉じてゆくのを感じた。

わたしにとって、敬語の一つ一つ、電話の受話器を取る動作の一つ一つが、高すぎる壁のように感じられていた。間違えたらどうしよう。怒鳴られたらどうしよう。そんな恐怖が常に頭の片隅にこびりついていて、体が思うように動かない。

午後の研修が始まると、その差はさらに残酷なまでに浮き彫りになった。

名刺交換の練習では、真由の堂々とした振る舞いに講師が満足げに頷く。商談のシミュレーションでは、葵の的確な受け答えに周囲から感嘆の声が漏れる。

わたしはといえば、相手の目を見るだけで精一杯だった。指先が震え、差し出した名刺が僅かに揺れる。

辛い。

「声が小さい。自信がないように見えるぞ」

講師の冷徹な指摘が、わたしの胸を鋭く刺す。わたしが当てられなくても、その場の空気だけで、自分がどれだけ劣っているかを思い知らされるには十分だった。

研修が進むにつれて、二人はどんどん先へ行ってしまう。

真由は誰とでもすぐに打ち解け、早くも先輩社員たちに名前を覚えられて可愛がられていた。葵は実務的なテストで常にトップの成績を収め、教育担当の社員からも一目置かれる存在になっていた。

それなのに、わたしだけなにもない。

「愛、大丈夫? ちょっと顔色が悪いよ」

葵が心配そうに覗き込んでくる。その優しさが、今のわたしには何よりも辛かった。

「大丈夫、ちょっと寝不足なだけだから」

嘘をつくたびに、自分の中の何かが削り取られてゆく。

二人は、この古い体質の会社ですら、自分の力で居心地の良い場所に変えていける才能を持っている。パワハラがあると噂されるこの場所でも、彼女たちなら上手く立ち回って、自分の道を切り拓いてゆくのだろう。

それに比べて、わたしはどうだろう。

言われたことをこなすだけで精一杯で、新しいことを覚えるのにも人一倍時間がかかる。二人が軽々と飛び越えてゆくハードルに、わたしは何度も躓き、擦り傷を作っている。

劣等感。

その黒い感情が、わたしの心の中でゆっくりと、確実に根を張ってゆく。

隣で笑っている真由の明るさが、眩しすぎて直視できない。淡々と仕事をこなす葵の背中が、遠すぎて手が届かない。

仲良くなればなるほど、自分の無能さが際立ってゆく。二人とは合うと思っていたのに、同時に、二人と一緒にいることが苦しくてたまらなくなる。

「明日は、いよいよ仮配属の希望調査だね」

帰り道、駅のホームで真由が言った。

「わたし、できればこのまま本社がいいな。みんなと一緒にいたいし」

「わたしはどこでもいいかな。仕事が覚えられるなら」

葵が落ち着いた様子で答える。

わたしは、何も言えなかった。

実家から通いたい。そのささやかな願いすら、二人のような「優秀な人材」でなければ聞き入れられないのではないか。そんな不安が頭をよぎる。

電車がホームに滑り込んでくる。

ドアが開くと同時に、わたしは逃げるように車内へ乗り込んだ。

「じゃあね、また明日」

手を振る二人の姿が、閉まってゆくドアの向こうに消えてゆく。

一人になった車内、窓ガラスに映る自分の顔は、研修初日よりもずっと暗く沈んでいた。

一ヶ月の本社研修は、まだ半分も終わっていない。

けれど、わたしはもう、自分の居場所を見失いそうになっていた。

もし、この一ヶ月が終わったとき、二人は華やかな部署へ、そしてわたしは誰も行きたがらないような遠い場所へ飛ばされたら。

その格差が現実のものとなったとき、わたしは二人の隣で笑っていられる自信がなかった。

九月のあの絶望とは違う、もっとじわじわと心を蝕むような、静かな絶望だ。

わたしはカバンの中のマニュアルを強く握りしめた。少しでも二人に追いつかないといけない。そう思えば思うほど、指先は冷たくなり、足元が不安定に揺れるのだった。

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知ってはいけない 如月幽吏 @yui903

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