天使の仮面

芦谷 犬彦

天使の仮面

 「さっさと吐いたらどうだ、何故患者を殺した!」ドンッという鈍い音とともに先輩が机を殴って被疑者を怒鳴りつける。しかし、被疑者の男は黙秘を貫いている。先輩はますます苛立って、今にも被疑者に殴りかかりそうで内心冷や汗が止まらない。

 すると先輩はこちらを向いて「タバコ吸ってくるわ、そいつ頼むぞ」と取調室を出ていった。縮みきった心臓に少しずつ血が戻り、落ち着きを取り戻し始めた。やっぱり先輩の取り調べは恐ろしい。小心者の僕にとってはなおさらだ。

 交代を言い渡された僕は被疑者の正面に座り、取り調べを再開した。この男は医者だそうで、世間では「天使」の異名で有名な医者だ。

 今、この男には殺人の容疑がかけられている。しかし僕には全くそう見えない。僕が質問をしようとすると、向こうが少し早く口を開いてこう言った。「刑事さん、私は懺悔をしなければなりません」これまで黙秘を貫いてきた口から出てくる言葉としてはかなり異質だ。懺悔という言葉に気を取られていると、男は僕の返事も聞かずに話し始めた。


 私はつい最近まで医師だった。幼い頃から医師だった父の背中を見ていたせいか、私は中学生の頃から人を救う医学の道を志すようになった。そこから中高と勉強に明け暮れ、名門医療大学である帝国大学医学部の門を潜った。

 大学では様々なことがあった。同じ釜の飯を食った仲間や、私を導いてくださった先生にも出会うことができた。何より印象的なのは妻と出会ったことだ。

 初めて入った文芸サークル、そこの歓迎会で右隣の席に彼女は座っていた。歓迎会で会話するうちに好意を抱き、メールやデートを何度か重ねて付き合った。そこから六年間の大学生活を終え、私は帝都病院で外科医として就職した。他学部だった彼女は先に会社員として働いていた。

 収入が安定しだした頃、私は相手の両親に許可を得て彼女と結婚した。結婚式には多くの人が参列し、いくつもの祝いの言葉をもらった。

 結婚から四年後に娘も生まれ、私の人生は豊かになっていった。しかし、その豊かさは永遠ではなかった。


 事は娘が中学生二年生の頃に起こった。ある日、帰宅してきた娘をふと見ると、全身泥だらけで怪我をしていた。「お前何があったんだ」そう聞いても娘は俯いたまま話さなかった。

 ひとまず水とタオルで泥を落とし、怪我の手当をした。幸い大きな怪我はなく、切り傷と擦り傷程度だった。それからというもの娘は度々ボロボロになって帰ってきた。その度に事情を尋ねてもやはり俯いて何も話さない。

 娘が就寝した後、妻にこのことを話すと、妻は「いじめにあっているんじゃないかしら」と言った。確かにいじめにあっているのだとしたら毎度泥だらけなのも頷ける。


 翌日、私は娘に「最近学校で何かあったのか?父さんに正直に話してくれ」と尋ねると、娘は「実は私、いじめられているんだ」と涙を流しながら答えてくれた。

 最初は物がなくなる、無視されるなどから始まり、次第に死ねだのキモいだのと机に書かれたり、カバンを捨てられる、殴る蹴るといった具合にエスカレートしているそうだ。


 私は娘が話した内容を記録し、学校と教育委員会に訴えた。しかし、一向に報告は来ない。不審に思った私が学校側に問い合わせると「本校にいじめが行われている事実はございません」と返ってきた。

 私は食い下がったが、向こうはそんな事実は無いと電話を一方的に切った。この感じでは教育委員会、ひいては警察も機能していないだろう。

 ここまでの事を妻に伝えると娘が自害しないかと心配していた。念の為、その日は家族全員で川の字になって寝た。しかしそれから八日後、娘が二階から降りてこないので、不審に思って部屋のドアを叩いた。娘からの応答がない。

 瞬間、最悪の事態が私の脳裏に過った。ドアを開けた時の光景は未だに私の目に焼き付いている。娘は部屋のシーリングファンを支点に宙吊りとなって冷たくなっていた。石みたいに固まっている私の背後で、後から駆けつけた妻は私の背後で叫んで腰を抜かしていた。


 ここまで話すと男はため息をついて、目の前に置いていたお茶を飲み干した。確かに五年前の二月、この男が言っていたようないじめ事件が起こっていた。僕が最初に担当した事件なので記憶に残っている。被害者の父親であるこの男は当然相手方を訴えたが、不起訴処分となり僕達には手が出せなくなった。

 当時の処分を不審がった何人かの先輩たちが捜査を継続していたが、後に全員が退職した。警察内部でもこの事件に関わることはタブーとされ、今日まで未解決のままだ。

 僕が男にその後どうなったかを話すように促すと、コクンと頷いてまた話し始めた。


 その後、私は妻と離婚した。娘の死後、お互いに中に壁ができてしまい、家の中でさえ話すことがなくなった。別れた後の妻の行方はわからない。離婚協議の際に娘の遺骨を妻と分骨し、今までの財産も半分に分けた。

 妻と離婚した後、私は狂ったように仕事に打ち込んだ。だが、仕事をしたかったわけじゃない。私の幸せがいとも容易く他人に奪われた、という現実から逃れる為の手段が働くことしかなかったから働いた。ただそれだけだった。皮肉なことに「天使」と呼ばれ始めたのもこのあたりからだった。

 来る日も来る日も仕事に追われ、娘の事件から五年たったある日の昼下がり、帝都病院に急患が運ばれてきた。

 どうやら近所のトンネルで大規模な事故があったらしく、トンネル近辺の病院では手が回らなくなり、ここへ移送されたそうだ。手が空いていた私は急患の対応に当たることになった。手術室へ向かう最中、ストレッチャーで運ばれてくる患者を見かけた。あまり良く見えなかったが顔面部と胴体にひどい怪我が見て取れる。

 これは早く処置せねばと、手早く準備を終えて手術室に入り、オペを始めようと患者の顔を見たとき、私は固まってしまった。


 急患の正体はあの一家だった。金の力で事件をもみ消した父親、根も葉もない噂を広め、私達を地域から孤立させた母親、そして私の娘を死に追いやった張本人である主犯の女子生徒。その三人が私の前に揃った。その事を理解した時、私の中に得体のしれぬドロドロとした何かが渦巻いているのを感じた。

 それは心根に深く根ざし、私の医師としての救いたいという思いを蝕んでいく。四十二年生きてきた中でこのような感情になったのは初めてだ。

 とはいえ、私は医師だ。目の前の相手がどれだけ憎い人物であろうと、患者であることは変わらないので救わなければならない。私は一家三人の内、娘の治療を担当することとなった。左頬に大きな裂傷、腹部には鉄筋が二十センチほど刺さっていたが、奇跡的に内臓は無事だったので止血と洗浄、縫合手術で済んだ。

 処置が終わった一家の娘は回復室へ運ばれていく。同じ頃に父親の処置も終わったようだ。しかし母親は病院到着時点で既に息が浅く、治療の甲斐なく亡くなったそうだ。私は二人の様子を見るために回復室へ赴いた。


 私は一家の父親の前に立って待った。一時間ほどで二人の意識は戻り、目をしかめて私の顔を見ている。

「どなたですか?」

父親はそう言った。どうやら私のことを覚えていないようだ。私は一家に何があったのかを伝え、残りの家族の状況も教えた。父親は妻が亡くなったことに悲しみつつも、娘を生かした私に対して涙ぐみながら感謝を伝え、私の前で父親は娘に抱きついた。私の娘を奪った分際で、よくもそのような事ができるものだ。

 するとまたドロドロとした何かが私の心に巣食った。私の中で大部分を締めていたはずの白い部分は、いつしか何よりも黒く変わってしまった。その後、意識が戻った二人は看護師達によって病室へと移動した。

 手術から三日後、私は二人が入院している病室に行った。ちょうど点滴交換の日だったので看護師に呼ばれ、私が自ら取り替えた。去り際に私は「早く完治すると良いですね」と放った。これがきっと、私に残された医師としての最後の良心だった。そんな事は知らない二人は笑顔ではいと言った。


 翌日の朝、二人の容態は急変した。病院の同僚達はなんとか回復させようと手を尽くしたが、奮闘空しく二人は亡くなった。

 私の計画通りだ。昨日、私が取り替えた点滴に炭疽菌を混ぜておいた。それも特別に改造を施し、感染速度と致死性を高めたものだ。しかし私とて、元から殺したかったわけじゃない。最初に意識が回復したあの時、私は謝ってほしかった。娘に、そして私に。

 だが、父親も娘もそうしなかった。私を忘れて今までのうのうと生命を享受していた。私にはどうしても許せなかった。人を救う医師としての矜持を捨て、人を殺した。これが私の罪だ。


 「でもきっと神は私を許してくれるはずなんです。何故なら私は今まで多くの人々を救ってきた『天使』なのですから!!」

男は高らかに笑っている。瞳孔が開いた目は血走り、口は大きく歪んでいる。正に狂気、復讐がたった一人の男をここまで狂わせた。僕はその事実が悲しかった。五年前の時点でしっかりと捜査をしていれば、こんな事件は起きなかった。もっと早くに立ち上がるべきだった。


 背後で取調室のドアが開き、先輩が戻ってきた。僕は先輩に男が自供したことを伝え、部屋を出た。まだ夕方だというのに、今日はなぜか廊下が沈んで見える。

 屋上の鉄柵に腕を乗せため息を出す。彼が語った心に巣食う「ドロドロとした何か」、僕も家族を失えば彼のようになるのか。もしそうなった時、僕は自分で自分を止めることはできるのだろうか。

 何も僕にはわからないが、少なくとも僕が刑事であるうちは狂うわけには行かない。僕は深呼吸をして夕日を見つめながらそう誓った。

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天使の仮面 芦谷 犬彦 @Ashiya-inuhiko11

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