◆第5章 Premise(前提)◆

ミス研の部室では、零が珍しく立ったまま話していた。


「……で、提出したレポートがこれ」


机の上に置かれた数枚の紙を、玲子が手に取る。

ミレイは椅子に深く座ったまま、視線だけを向けていた。


「倫理学の課題?」

玲子がざっと目を走らせる。


「うん。

 テーマは“人の死の定義”」


「重いの持ってきたね」

ミレイが軽く言う。


零は肩をすくめた。


「でも、教授は気に入ってた。

 “答えを出していないところがいい”って」


「それ、褒めてるのかしら」

玲子が苦笑する。


そのとき、

部室のモニターが淡く光った。


《VRミス研 接続中》


ひよりのアバターが、少し遅れて表示される。


「こんにちは……」


「お疲れ」

玲子が自然に応じる。


零は、ひよりの方を見てから言った。


「ちょうどね、レポートの話をしてたんだ」


「レポート?」


「人の死について」


一瞬、玲子が零を見る。


「……それ、ひよりには難しいんじゃない?」


悪意はない。

配慮のつもりの一言だった。


「うん、まあ……」

零も少し迷ってから、

「すごく大まかに、だけどね」


ひよりは、気にした様子もなく頷いた。


零は言葉を選びながら説明する。


「脳がどうなったら“死”と判断するか、

 とか……

 心とか魂を、どう扱うか、とか」


「哲学寄りだね」

ミレイが言う。


「倫理と哲学の間、かな」

零は頬に手を添えて首を傾げる。



ひよりが、少し考えてから口を開いた。

「何も聞こえなくなって、何も言えなくなったら……

それって、生きてるっていえなくなっちゃうかな」


三人の視線が集まる。


一瞬、誰も言葉を挟まなかった。


まるで、その言葉が

――議論の“外側”から投げ込まれたかのように。


「医学的には。」

最初に口を開いたのは、ミレイだった。

「不可逆的な脳機能停止。

 情報の入出力が成立しなければ、生存とは言えませんわ」


ひよりの方は、見ていない。

問いに答えたというより、

最初から用意されていた結論をなぞっただけの声音だった。


「理論的にも整理しやすいわね」

玲子が続ける。

「観測できないものは、基準にしづらい。

 扱えないものは、切り落とすしかない」


零は、少し遅れて口を開いた。


「でも……」

言葉を選ぶように、間を置いてから。

「それは、“脳=人”と考えた場合、だよね」


ミレイが小さく頷く。


「物質一元論」

淡々とした説明。

「人は物質の集合体。

 心も思考も、脳の機能の一部にすぎない」


「私は、そこまで割り切れないかな」

零は静かに言った。

「心は、脳と同一じゃないと思う。

 少なくとも、“同じ棚”には置けない」


ここで、玲子がひよりに視線を向ける。


「今の話、少し難しいわよね」

ひよりの反応を確かめるように、言葉を噛み砕く。


「簡単に言うとね――

 ミレイは『人は“モノ”』って考え方。

 脳が止まれば、そこで終わり」


少し間を置いて、零を見る。


は、『心はモノとは別にある』って考え方。

 脳が壊れても、“心そのもの”は

 イコールではないかもしれない、ってね」


ひよりは、黙ったままだった。


「で、法的に扱うなら?」

ミレイが話を戻す。


玲子は、即答する。

「物質一元論」

ためらいはない。

「測れないものは、判断材料にできない。

 線を引けるのは、そこしかないの」


三人の議論は、

それぞれの立場で、きれいに噛み合っていた。


ただ――

ひよりだけが、少し首を傾げていた。


「……なんか、うまく言えないけど」


「終わったかどうかを決める話で、

中にいるかどうかは、誰も見てない・・・」


三人は、理解できなかった。


その言葉が、

どの立場にも属していなかったからだ。


議論は、そこで一度終わった。

いつものように。


零はその夜、推究録を書く。


【推究録】

「倫理学の課題

 テーマは“人の死の定義”」


私は物心二元論

ミレイは物質一元論

玲子は法的観点から物質一元論を採る


ここまでは、はっきりしている。


だが、書き進めるうちに、

零は気づいた。


ひよりの視点は、どれでもない。


推究録の最後に、零は一行だけ残した。


三人の推究はいずれも成立している。

ただし、最初と最後に投げ込まれた問いは、

その枠組みの外から来ていた。

二元でも、一元でもない。

定義の内側にすら、立っていない。



翌日、零は二人に告げた。


「昨日のひよりの一言……

 あれ、どの立場にも分類できない」


「感情論じゃないの?」

ミレイが言う。


零は首を振った。

「感情でもない。

 前提を疑ってた」


「前提?」


「“脳をシステムとして扱う”っていう前提、そのもの」


玲子は、少し考えてから言った。

「……それ、

 理論がもう走り出してる世界じゃない?」


零は、頷いた。


「だから、怖い」

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