◆第3章 Signal(信号)◆

ミス研の部室は、珍しく私語がなかった。


机の中央に置かれているのは、資料でも端末でもない。

年季の入ったチェス盤だけだ。


白を持つのは玲子。

黒を持つのはミレイ。


駒の配置はすでに中盤を過ぎているはずだったが、

盤面にはまだ余裕が残っている。

駒も多く、形も整っている。


――にもかかわらず、

玲子はこの対局が「消耗戦」に入っていることを感じていた。


「……交換、起きないわね」


独り言のように呟きながら、玲子はルークを動かす。

悪くない一手。

少なくとも、定石から外れてはいない。


ミレイは即座に応じた。

間を置かず、説明もなく、ただ一手。


「取られたと思ったんだけど」


「ええ。取れますわ」


「でも、取らない」


「はい」


短い応答。

それ以上の説明はない。


取れる駒はある。

だが、どちらも手を伸ばさない。

駒が減らないまま、盤面だけが少しずつ窮屈になっていく。


そのとき、部室の端末が短く音を立てた。


「……あ」


玲子が視線を上げる。


VRミス研の回線が接続され、

壁際のモニターに、高等部の制服姿が表示された。


『こんにちは。少し遅れました』


ひよりだった。


「今日はリアルで集まってるって聞いたので……

 見学だけでも、と思って」


ミレイが一瞬だけ視線を上げる。


「構いません」


『ありがとうございます』


ひよりはそう言って微笑み、

――なぜか、挨拶より先に盤面を見ているようだ。



玲子の手が、わずかに止まった。


考えていないわけではない。

むしろ逆だ。

考えるべき手が、もう残っていない。


「……参ったわ」


そう言って、キングを倒す。


盤面には、まだ十分すぎるほど駒が残っていた。

だが玲子には分かっている。

これ以上続けても、局面は好転しない。


「お見事」


潔い声だった。


ミレイは頷き、静かに駒を元に戻し始める。


「定石としては、間違っていませんでしたわ」


「ええ。だから余計に、よね」


玲子は苦笑した。


「正しい手を積み重ねて、正しく負けた感じ」


その言葉に、ミレイは否定もしなかった。


代わりに、視線を上げる。

――モニターの方へ。


『……』


ひよりは、さきほどから一言も発していない。

ただ、盤面を見つめていた。


「ひより」


ミレイが、はじめて名を呼ぶ。


『はい』


少し間があってから、ミレイは言った。

「貴女も、やってみますか?」


玲子が思わず振り返る。

「え?」


『え……私ですか?』

ひよりは目を瞬かせた。


ミレイはすでに部室の端末に手を伸ばしていた。

「VRでもできますわよ」


数秒後、対局用の仮想盤面が立ち上がる。

黒と白の駒が、規則正しく並ぶ。


ひよりのアバターが、盤の向こう側に表示された。


『……よろしくお願いします』


「こちらこそ」


ミレイは白を選び、即座に最初の一手を指す。


ひよりは、少しだけ考えたあと、ゆっくりと応じた。


駒の交換は、ほとんど起きなかった。


取れる駒がないわけではない。

だが、ひよりの駒は、いつも交換になる一手手前で、さりげなく位置を変える。


「……?」


玲子は、モニターを見つめながら眉をひそめた。


意味が分からない。

狙いも、攻めも、はっきりしない。


それなのに――

ミレイの指が、ほんの一瞬、止まった。


「定石ではありませんわね」


『あ、すみません』


ひよりは、申し訳なさそうに言った。


『あまり、定石はよく分かってなくて』


それは嘘ではないのだろう。

少なくとも、勝ちに行く指し方ではない。


終盤。

ミレイは、明確に詰めにかかった。


ナイトでビショップとポーンのフォークを狙う。


ひよりは、ビショップを下げる。

ミレイのナイトはさらにビショップを追う。

ひよりは、ビショップを斜め上に逃がす。


交換を避けるだけの、消極的な一手に見えた。


ビショップの効き筋が変わったのを確認し、さらに踏み込む。

ルークとポーンをナイトでフォーク。


『あらら』


ひよりの呟きは、困ったように聞こえた。

玲子は首を傾げる。

そうなることは比較的簡単に予測できたから、困る意味が分からない。


ひよりがビショップを逃がした数手後――


「……チェック……」


そう言いかけて、ミレイの動きが止まった。


今、この手を指したら。

終わるのは――自分の方だ。


ミレイは、ゆっくりと手を下ろす。

「……なるほど」


逃げ切られた数手先。

どうしても防げない反撃が、見えてしまった。


それは、ただ交換を避けただけだと思われた、あのビショップで

ミレイのキングの唯一の逃げ道を塞がれていたからだった。


『?』

玲子も零も、展開が見えない。


ミレイは、はじめて微笑んだ。

「この対局は――あの一手で、終わっていましたのね」


ひよりは、少し困ったように笑った。


盤面には、まだ多くの駒が残っている。


だが、その対局はすでに結末を迎えていた。


「負けましたわ」

ミレイはひよりの差しミスを期待することなく、自分のキングを横に倒した。


これでその日のVRミス研のミーティングは幕を閉じた。



その後ミレイは部室に一人残り、静かに棋譜を読み直していた。

ナイトでビショップとルークをフォークしたあの一手――

その瞬間、どこか遠くで聞こえた気がする。

『あらら』。

まるで自分に向けられた言葉のように思えた。

だが、局面にそれを結びつけられる理由はわからない。

不思議な感覚だけが、胸の奥に残った。



【推究録】


零の推究録には、事実だけが淡々と記される。

遠野 日和との対局がVR上で行われたこと。

駒の交換はほとんど起きず、終盤まで盤面には多くの駒が残ったこと。

ビショップの位置変更や、ナイトによる攻撃の形が数手確認できたこと。

結果として、ミレイは投了したこと。


しかし、ひよりの手の意図は明確に書けない。

一見消極的に見える動きが、局面を決定的に変化させたのに、理由を文章化することは困難である。

盤面にはまだ駒が残っているにもかかわらず、

この対局はすでに結末を迎えていたように見える。

観察者として、理解できない違和感だけが残る。


零は推究録を閉じた。


――あの『あらら』は、もしかすると、ただのつぶやきではなく、

局面の中で起きた変化を、静かに知らせる合図のようなものだったのかもしれない。


これは零の中にひっそりと沈めた。

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