◆第2章 Residue(残滓)◆

零は、推究録の新しいページを開いたまま、しばらくペンを動かせずにいた。


記すべき事件は、すでに終わっている。

通称「Filter」と呼ばれるログ消失事案。

原因も、経過も、結果も、形式上は整理がついている。


だから本来なら、

これは「まとめ」の作業のはずだった。


――にもかかわらず。


零は、ひとつ深く息を吸い、

慎重に一行目を書き始めてから、すぐに手を止めた。


文章は成立している。

事実関係にも齟齬はない。

主観は排しているし、語調もいつも通りだ。


それでも、

どこかに“余白”が残る。


消えたはずのログよりも、むしろその「消え方」のほうが、まだページの中に居座っているような感覚。


零は無意識のうちに、その日の記録の端に、小さく書き添えていた。


――まるで、熱で透明になったインクのよう。


書いた瞬間、零は眉をひそめた。

これは記録ではない。

比喩は、推究録には不要だ。


そう思い、消そうとして、

それでも消せずにペン先を浮かせたままになる。


理由は分からない。

ただ、この一文を削ってしまうと、事件そのものが、別の何かに変質してしまう気がした。


零は、ページを閉じなかった。

そして気づかぬうちに、次の事件のための余白が、その推究録の中に確保されていることにも。



ミス研の定例ミーティング。


「次の刑事訴訟法の問題なんだけど、この状況で未必の故意が立証できるか」

資料をアップロードしながら、玲子は議題を提議する。


コメント欄に表示されたのは【密室の恋が立証できるか】


零は目を輝かせながら

「密室の恋!ロマンスミステリー的なのかな♪」


ひよりは両手を握って口元へ。


ミレイは無表情を保ったまま。


苦笑しながら玲子は訂正する。

「音声認識も人間のような聞き間違いをするのね。“密室の恋”じゃなくて“未必の故意”よ」 


一呼吸おいて、玲子は感情を排した声で説明する

「未必の故意 とは

結果が生じる可能性を認識しながら、それでも行為に及ぶ心理状態。

結果の発生を積極的に望まなくとも、起きても構わないと容認している点に特徴がある」


【事案】

A(20歳代・女性)は、台所で梨を剥き、小皿に盛り付けていた。

B(30歳代・男性)が正面から接近し、Aを抱きしめようとした。

Aはとっさに手近にあった果物ナイフを掴み、胸元に引き寄せた。

果物ナイフの刃は、Bの身体の中心から外側を向いていた。

Bの胸部に刺入した(心臓付近)。

刺さった状態のまま、BはAを強く抱きしめた。

果物ナイフは柄を起点、胸骨を支点、刃を作用点に、外側へ心臓を切り裂く軌道を描いた。

BはAに覆いかぶさる形でBの方へ倒れ込んだ。

果物ナイフは上からの力で柄が下がり、肋骨を支点として刃は切り裂かれた心臓を上下に開いた。

Bは即死。死因は出血性ショック。


「以上が、起こったこと」


玲子はそう言って、言葉を切った。


ひよりがつぶやく

「・・・人の頭の中は覗けないからなぁ」


零は、

ペンを動かさなかった。


書き留めもしない。

否定もしない。

肯定もしない。


その言葉は、議題の外側に置かれたまま、誰の推究にも回収されなかった。



ミレイの推究


ミレイは端末を操作しながら説明を始める。

「物理的には、再現できる」


画面に簡略化した人体断面。

「刃を水平に構えたことで、肋骨の隙間から心臓に到達しやすい角度になる」


果物ナイフの刃渡り。

「家庭用でも、心臓まで届く長さはある」


次に、力の向き。

「刃が身体の中心から外側を向いていた。

この状態で柄をわずかに左へ押すと――」


その言葉に、

零のペン先が、紙から離れないまま止まった。


押す。

意図。

操作。


ほんの一瞬、零は顔を上げてミレイを見た。

問いではない。

否定でもない。


ただ――

その動きが“選択”だったのかどうかを、測るような視線。


ミレイは気づかないまま、説明を続け、指で弧を描いた。

「胸骨を支点に、刃先が外へ動く」

「刺す、じゃなくて切り裂く運動になる」


さらに密着。

「抱きしめられて、距離がゼロになる。

体重がかかり、倒れ込むことで肋骨が第二の支点になる」

「結果、刃は上下に動き、切れた部分を広げる」


端末を閉じる。


「結果として、意図的な操作がなくても致命傷は成立する」


零は、視線を落としたままだった。


「……物語として考えると」

零は、少し間を置いて話し始めた。


「Aは、“何かをしよう”と考える前に手が動いてる」


狙っていない。

構えてもいない。


「遠ざけたい、やめてほしい、その感情はあったと思う」


でも、と零は続ける。

「殺したい、とは同じじゃない」


抱きしめられた距離。

圧迫。

思考が止まる近さ。


「その状態で、刃の向きや結果を選べたとは思えない」


零は小さく息を吐いた。

「これは、“選択”が始まる前に終わってしまった話だ」



「法律的に整理するわ」

玲子は静かに言う。


「正当防衛は成立しにくい。

侵害はあるけど、急迫性の評価が割れる」


「過剰防衛。

結果は重大。ただし、行為を制御できていたかは疑問」


「未必の故意。

“死んでも構わない”そう認識していたか」

玲子は首を横に振った。

「立証できない」


結論。

「この事件は、有罪にも無罪にも無理なくは辿り着けない」

「だから、法はここで立ち止まる」


沈黙のあと、ひよりがつぶやく。

「でも……」

「起こったことは、変わらないかな・・・」


全員がそちらを見るが、それ以上、言葉はなかった。



夜。

零は一人で、推究録をまとめていた。


事実は、整理できる。

力の向きも、距離も、結果も。

法律の結論も、“書けてしまう”。

ページを進める途中、零は二箇所で、ペン先を置いたまま次の行に移れなかった。


一つは、

ミレイの説明――

「押す」という言葉。


もう一つは、最初に発したひよりの一言。

――人の頭の中は、覗けない。

それは、証拠が足りない、という意味ではない。


書く側が、踏み込んではいけない線の話だ。

最後に、ひよりの締めの言葉が残った。


――起こったことは、変わらない。


零は、その一文をそのままは書かなかった。

代わりに、推究録の末尾に、短く記した。


判断できないことはある。

それでも、結果は決して消えはしない。


ペンを置く。


書かなかった言葉が、この記録のいちばん重い部分だと、

零はわかっていた。



刑訴法の講義。

「未必」 「故意」。

文字になれば意味は明確だが、教授の声は

「み ひつ」

と、わずかに間が空く。

そのたびに、玲子の頭にゼロの言葉が浮かんだ。


――密室の恋。


小さな心のひだに触れるような、ささやかな響き。


「未必の故意」は、「密室の恋」になる。

「ある意味、悪意」は、「ドキドキ、わくわく」になる。

その置き換わりが、あまりに容易である。

それが自分自身に起こったことが、少しだけ怖かった。


玲子はそっとノートに視線を戻し、講義に意識を戻した。

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