第6話 期待してしまった
返却本は、いつも通り少なかった。
まとめ終わるころには、カウンターの上はすっかり片づいている。
いつもの席に座ると、どうしても、あのときの距離が蘇る。
仕事が終わると、時間だけが残る。
ソラは隣の席に座ったまま、珍しく何もしてこなかった。
借りたのか、自身の物なのか、本を開き、ページをパラパラとめくる。
からかうような声も、距離を詰める気配もない。
「……暇ですね」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
いつもなら、このあと何かが続く。
軽口とか、意味の分からない質問とか、こちらの反応を試すようなこと。
でも、ソラはそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ口角を上げて、それで終わり。
――変だ、とは思わなかった。
僕は読みかけの図書に視線を戻す。
この時間が、ただ流れていく。
そのとき。
ソラの足が、ふと動いた。
組み替える。
それだけの、ごく自然な動作。
けれど。
頭の奥で、勝手に何かが再生される。
机の下。
触れていた感触。
離れなかった距離。
反射的に、息を止めた。
視線が落ちそうになり、慌てて正面を見る。
足は、触れていない。
膝にも、ふくらはぎにも。
それを確認して、胸の奥が、ほんの少し緩む。
その直後に、
期待してしまったことに気づく。
触れているかもしれない、と。
また、あの距離かもしれない、と。
何も起きていないのに。
自分で勝手に思い出して、
勝手に比べて、
勝手に、待っていた。
気づいた瞬間、顔が熱くなる。
何を考えてるんだ。
相手は、ただ足を動かしただけだ。
隣を見る勇気が出ず、本に視線を落とす。
今は、まだ大丈夫だと思っている。
その「まだ」が、いつまでなのかは分からない。
布が擦れる音のあと、小さな呼吸音が聞こえた。
顔を上げると、ソラはカウンターに両腕を重ね、
その上に顔を伏せていた。
身体を、少しこちらに向けて。
……寝た、のか。
規則正しい呼吸。
長いまつ毛が、伏せたまま動かない。
暇なはずなのに、今日は何もしてこない。
からかいも、声かけも、余計な接触もない。
……助かる、はずなのに。
その横顔を見た瞬間、
さっきの想像が、別の形で浮かぶ。
もし、このまま。
距離が、ほんの少し縮まったら。
吐息が、耳に触れるほど近づいたら。
想像した途端、心臓がはっきりと跳ねた。
椅子に深く座り直し、視線を逸らす。
逃げるみたいに。
それでも、隣から離れたいわけじゃなかった。
――起こせなかった。
起こそうと思えば、できた。
名前を呼ぶだけだ。
小さく声を出せば、それで済む。
それなのに、喉が動かなかった。
理由を探そうとして、すぐにやめる。
恥ずかしいから、ではない。
ぐっすり眠っているから、でもない。
触れたら、壊れそうな気がした。
何が、とは分からない。
眠っている彼女なのか、
この距離なのか、
それとも、自分の中の何かか。
声を出したら、今まで通りではいられなくなりそうだった。
起きて、目が合って、
いつもの調子で言葉を交わして。
それだけのはずなのに。
その「それだけ」が、
今は、やけに遠く感じる。
――もし、起こしてしまったら。
さっき浮かんだ想像を、
なかったことにはできない気がした。
足の感触も、吐息の距離も。
自分が、何を待っていたのか。
それに、どんな名前をつけてしまうのか。
考えたくなかった。
だから、何もしない。
理由は、はっきりしないまま。
ただ、この時間が壊れないように、
動かないという選択をした。
時計を見ないようにしていたのに、
針の位置だけは、なぜか分かった。
さっきより、確実に進んでいる。
ソラは、動かない。
呼吸のリズムも、変わらない。
机に伏せたまま、
両腕を枕にして、
こちらに顔を向けている。
起こさなかった時間が、
そのまま積み重なっていく。
本を一冊、棚に戻す。
戻したはずなのに、
背表紙の並びが、少しずれて見える。
集中できていない。
席に戻る。
足元には、何も触れていない。
それなのに、
触れるはずだった何かを、
身体が探している。
期待したこと。
安堵したこと。
残念に思ったこと。
どれも、同じ場所に沈んでいる。
ソラが何もしなかった理由を、
考えようとして、やめる。
考える資格が、
僕にあるとは思えなかった。
ただ、時間だけが過ぎていく。
「……ん」
小さな声。
ソラが、ゆっくりと瞬きをする。
腕から顔を離し、
少しだけ目を細めたまま、こちらを見る。
「もう、こんな時間ですか」
寝起きとは思えない、落ち着いた声。
「先輩、ずっといました?」
責めるでも、探るでもない。
「……うん」
短く答えると、
ソラは、ふっと口角を上げた。
「よかった」
理由は、言わない。
それ以上、何も聞かず、
彼女は伸びをして立ち上がる。
いつもの距離。
いつもの当番。
でも。
さっきまでと、
同じだとは思えなかった。
「先輩」
僕の後ろを通り過ぎ、振り返る。
ふわりと髪が揺れた。
「今日も、楽しかったです」
その言葉の意味さえ、
僕は霧の中にしまい込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます