第4話 触れてしまった
放課後の図書室は、今日はいつもと違っていた。
机の間を行き交う足音。
本を運ぶ声。
控えめだけれど、確かに“人がいる”気配。
委員会活動日だ。
普段は部活で顔を出さない委員も何人か来ていて、
図書室は珍しく賑やかだった。
「じゃあ、この棚お願いしまーす」
「了解です」
指示が飛び、返事が返る。
静けさが売りのはずの場所が、今日は少しだけ現実的だ。
僕は書架の前で、背表紙を確認しながら本を並べていた。
単純な作業の繰り返し。
余計なことを考えなくて済む――はずだった。
視界の端に、ソラがいる。
僕の近くにはいない。
その代わり、少し離れたところで、女子委員のひとりと何やら話している。
作業をしているようで、していない。
手は動いているけれど、動きは最小限。
「ちゃんとやってますよ」と言い張れるぎりぎりのライン。
……相変わらずだ。
「早川さーん」
僕とは別の棚の方から、声がかかった。
ソラは手を止めて、顔を上げる。
「はーい」
軽く、明るく。
よく通る声だった。
彼女はそのまま、呼ばれた方へ歩いていく。
背中が遠ざかる。
作業を続けながら、
僕は無意識に、その後ろ姿を目で追っていた。
周りには人がいる。
話し声も、足音も、視線も。
それなのに。
ソラが他の委員と話しているだけで、
少しだけ、落ち着かなくなる。
「……」
本を一冊、棚に戻す。
指先が、背表紙の端をなぞる。
――人がいる状況でも。
――僕は、ソラって呼ばなくちゃいけないのか?
心の中で浮かんだ問いに、
自分で驚いた。
呼び方なんて、ただの呼び方だ。
周囲に合わせて「早川」で済ませればいい。
なのに。
もう一度、
彼女をそう呼ぶのを想像してしまう。
人のいる場所で。
聞かれるかもしれない距離で。
その考えだけで、
胸の奥がわずかに熱を持った。
「先輩」
すぐ横から、声がした。
反射的に顔を向けると、ソラが立っていた。
さっきまで離れた場所にいたはずなのに、
気づけばすぐそばだ。
いつも通りの制服。
リボンは少し緩い。
口元に、わずかな笑み。
こちらの反応を待っているような、余裕のある視線が向けられていた。
「終わったので、ひと休みしに来ました」
当然みたいに言って、
ソラは後ろ手に腕を組み、僕を見上げる。
働いたあとの休憩。
理由としては、ちゃんと筋が通っている。
「……まだ、やること多いよ」
そう言いながら、
僕はソラから目を離した。
彼女を正面から見ると、余計なことを考えてしまいそうだったから。
「休憩中です」
即答だった。
でも、そのあと、ほんの一拍置いて続ける。
「頼まれたら、ボク、やりますけど」
軽い調子なのに、逃げ道は残していない。
頼めばやる。
でも、頼まなければここにいる――
そう言われている気がした。
「……じゃあ」
僕は少し迷ってから、言葉を選ぶ。
「この辺、あと少しだけ手伝ってもらえる?」
口にしてから、少しだけ遅れて気づく。
今ので、ソラがここにいる理由を、ひとつ増やしてしまった気がした。
「はいはーい」
ソラは軽く笑って、僕の隣にやってくる。
さっきまで一人分空いていたはずの距離が、
いつの間にか埋まっていた。
同じ段に並べる本を取ろうとして、
ほぼ同時に、二人とも手を伸ばす。
――触れた。
一瞬。
指先が、ほんの少し重なっただけ。
「……」
どちらも、すぐには引かなかった。
止まったわけじゃない。
ただ、動く理由を見失ったみたいに。
体温が、伝わった。
――近い。
いや、違う。
今さら気づいたわけじゃない。
最初から、ずっとこの距離だった。
今までだって、隣に座れば、肩が当たりそうで、
少し身じろぎすれば、触れてしまいそうな位置。
それを、
視線を外して、考えないようにしてきただけだ。
触れてしまったせいで、
その距離が、はっきり形になった。
指先から、じわりと熱が広がっていく。
引かなきゃいけないのは分かっているのに、
体が、少しだけ言うことを聞かない。
ソラは、何も言わない。
表情も、いつもと変わらない。
先に動いたのは、彼女だった。
重なっていた指が、するりと離れる。
――たぶん。
彼女にとっては、
この距離も、この一瞬も、
特別じゃない。
揺れているのは、僕だけだ。
そう思った瞬間、
胸の奥が、遅れてきたみたいに強く脈を打った。
遠くで、本が戻される音がした。
誰かの足音が、棚の向こうを通り過ぎる。
それで、ようやく現実が戻ってくる。
棚の前は、二人並ぶには少し狭い。
人が行き来するたび、無意識に身体を寄せ合うことになる。
僕は、なるべくソラを見ないようにしながら本を並べていた。
視線を落とし、背表紙だけを追う。
「……」
背後で、気配が動く。
「通りますよ」
低く、近い声。
次の瞬間、
背中の上のほうに、手のひらが触れた。
押された、というほどでもない。
ただ、
通るために、触れただけ。
制服越しに伝わる体温が、
一瞬、背中に残る。
反射的に、息を詰めた。
ソラは、何事もなかったように僕の横を抜け、
反対側の棚へ回る。
振り返る間もない。
――今の、必要だったか?
通路は、確かに狭い。
でも、声をかけるだけで、十分だったはずだ。
それでも、
触れた。
さっきの指先と同じだ。
意味を持たせなければ、ただの動作。
意味を持たせているのは、
僕だけだ。
それが、分かっているのに。
背中に残った感覚が、
消えない。
ソラはもう作業に戻っている。
本を取り、棚に収め、何事もない顔で。
いつもと同じ距離。
いつもと同じ位置。
なのに。
触れなかったはずの場所まで、
意識が追いついてくる。
距離が変わったわけじゃない。
触れただけだ。
たったそれだけで、
今まで保っていた線が、少しだけ歪んだ。
本を並べ終えるころには、
図書室のざわめきも少しずつ落ち着いてきていた。
「そろそろ、終わりですね」
ソラがそう言って、棚から一歩下がる。
何でもない動作。
いつも通りの距離。
「……そうだね」
そう答えながら、
僕は自分の声が少しだけ硬いことに気づく。
ソラは気にしていない。
本当に、気にしていない。
誰かに呼ばれれば、
いつもの調子で「はーい」と返して、
何事もなかった顔で、そちらへ向かう。
その背中を見送りながら、
僕は、さっきの感覚を思い出してしまう。
指先。
背中。
一瞬だけ、確かに触れた熱。
ソラは、もう振り返らない。
振り返る必要がないからなのか。
揺れているのは、
最初から最後まで、僕だけだった。
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