第2話 名前で呼んだだけ
放課後の図書室は、今日も静かだった。
閲覧席にはいくつも空席があり、利用者の姿はほとんどない。
それを確かめるように一度だけ室内を見回してから、彼女は迷いなく椅子を引いた。
僕の隣。いつものカウンター席だ。
「今日も、ボクたちですよね」
当番を確認するようでいて、答えを求めていない言い方。
腰を下ろす動作も、すでに終わっている。
「……ん」
曖昧に返すと、彼女は小さく笑った。
「最近、ここ、誰か来ました?」
そう言いながら、机に肘をつく。
本を読む姿勢とは言い難い。
「いや……ほとんど」
「ですよね」
即答だった。
納得したというより、想定内だと言いたげな声。
早川
同じ図書委員の後輩で、放課後はだいたいこのカウンター席にいる。
仕事というより、
ここに座ること自体が目的に見えた。
そう思えてしまうくらい、いつも同じ席にいる。
「平和ですね。静かで、暇で」
そう言って、わざとらしく欠伸をする。
その拍子に、肩がほんの少しだけ近づいた。
偶然と言い切るには、慣れすぎている距離だった。
本を一ページめくって、僕はそっと息を吐いた。
視界の端で、彼女が完全に暇を持て余しているのが分かる。
椅子に深く腰を預けて、足を軽く投げ出す。
手元の本を開いては閉じ、また開いて、すぐ閉じる。
読む気は最初からないらしい。
……さすがに。
「ねぇ……」
声をかけた。
けれど、反応はない。
この距離で聞こえないはずがないのに、
彼女はページをぱらぱらと鳴らしたまま、顔も上げなかった。
「は、早川……さん」
一拍。
彼女の指が、ようやく止まる。
ゆっくりと顔だけをこちらに向けて、小さく首を傾げた。
「先輩」
静かな声。
でも、妙に逃げ場のない呼び方だった。
「言ったはずです」
それだけ。
なのに、胸の奥がきゅっと縮む。
――名前で呼んでください。
――そのほうが、近いじゃないですか。
いつだったか。
同じ放課後、同じ席で、そう言われた記憶がよみがえる。
「……」
一度、息を吸う。
「そ、ソラ……」
舌が慣れていない。
音を確かめるみたいな、ぎこちない呼び方になる。
一瞬の沈黙。
それから、彼女は小さく笑った。
「なんですか、先輩」
満足そうな声だった。
それだけで、胸の奥がざわつく。
名前を呼んだだけなのに、
何かを一歩進めてしまった気がした。
彼女は何事もなかったように、また椅子に背中を預ける。
「で、仕事ですか?」
彼女はそう言いながら、どこか楽しそうにこちらを見る。
……ああ。
もう、彼女じゃない。
ソラだ。
「……返却本、棚に戻してきてもらってもいい?」
できるだけ事務的に言ったつもりだった。
「えー」
即座に、気のない声。
「ボク、今すごく大事なことしてるんですけど」
「……何を?」
「暇を味わう、っていう」
そう言って、悪びれもせず笑う。
……やれやれ。
立ち上がろうとした僕を、
視線だけで追ってくる。
「先輩がやるんですね。真面目」
「じゃあ、ボクは――」
言いかけて、ソラは椅子から立ち上がった。
「やっぱり、ついていきます」
「え?」
「暇なんで」
理由になっていない理由だった。
返却本を数冊抱えて、書架の前に立つ。
背表紙を確認しながら、棚の位置を探すだけの単純な作業だ。
――なのに。
背後に、気配がある。
振り返らなくても分かる。
ソラは手伝う気もなく、ただ後ろに立っているだけだ。
「……ちゃんと並べてます?」
すぐ近くで声がした。
耳に触れる距離。
低く落とされた声が、直接届く。
「だ、大丈夫だと……思う」
答えながら、本を棚に差し込む。
その瞬間、ふっと空気が動いた。
吐息だ。
意識しないようにしてきたはずのもの。
いつも隣に座っているから、知っているはずの呼吸。
それなのに。
背後から感じると、
こんなにも別のものみたいに思えてしまう。
わずかに甘い、ソラの匂い。
近づいたときにだけ分かる、体温を含んだ空気。
肩が、無意識に強張る。
「先輩」
名前を呼ばれる。
その拍子に、また息がかかる。
「……力、入りすぎです」
からかうような声音。
けれど、離れる気配はない。
棚に手を伸ばしたまま、動けなくなる。
「そんなに緊張されると」
囁くように続く声。
「見てるだけのボクが、
悪いことしてるみたいじゃないですか」
違う。
悪いのは、距離を意識してしまっている自分のほうだ。
返事ができないまま、本を戻す。
指先が、微かに震えた。
その様子を、ソラは見逃さない。
「……あ」
楽しそうな、短い息。
「今の、分かりやすいですね」
それだけ言って、
ようやく一歩、下がる。
残されたのは、
背中に残る熱と、呼吸の感覚だけだった。
本を戻し終えても、
しばらくその場を動けなかった。
背中に残った気配が、
簡単には消えてくれない。
「……終わりですか、先輩」
いつの間にか、
ソラは少し離れた位置に立っていた。
さっきまでの距離が嘘みたいに、
きちんと“他人”の間隔。
「お疲れさまでした」
そう言って、くるりと踵を返す。
そのまま行ってしまうのかと思った、その直前。
ソラは立ち止まり、振り返った。
「今日の反応も、よかったですよ」
軽い調子。
でも、目だけはしっかりこちらを見ている。
「無理に隠そうとするところとか」
「……すごく」
一拍、間を置いて。
「先輩らしいです」
それだけ言って、今度こそ歩き出す。
追いかける理由も、
引き留める言葉も、見つからない。
残されたのは、
静かな書架と、胸の奥に残るざわめきだけ。
――次も、きっと同じだ。
そう分かっているのに、
逃げる気にはなれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます