第17話
物語を書く者
部屋は、変わっていなかった。
六畳一間。
積み上げた資料本。
埃をかぶったキーボード。
異世界の学園に比べれば、
あまりにも狭く、あまりにも静かだ。
「……ただいま」
誰に言うでもなく呟く。
ミトラは、棚の上に跳び、
興味深そうに本の背表紙を嗅いでいる。
ノアは、何の違和感もなくカーテンを整えた。
「空気の流れ、問題ありません」
「主が執筆に集中するには、良い環境です」
「評価基準が執事すぎる」
椅子に腰掛け、
キーボードの前で手を止める。
――書けるのか。
魔法も、神獣も、悪魔も知った今、
この世界の言葉で。
しばらく、何もせずに画面を眺めた。
そして、気づく。
恐れていたのは、
異世界での経験が現実を壊すことじゃない。
現実が、薄くなることだった。
だが――
ミトラが、小さく鳴いた。
――きゅ。
その声は、
焚き火の音でも、
学園の風でもなく。
今この部屋の音だった。
「……大丈夫か」
ノアが、静かに言う。
「主は、逃げて戻ってきたわけではありません」
「書くために、戻ってきた」
俺は、深く息を吸った。
作家とは何か。
異世界を知っていることでも、
真理を見たことでもない。
戻ってきて、言葉にすることだ。
キーボードに、指を置く。
画面の白が、
もう空白には見えなかった。
最初の一文を、打ち込む。
――世界は、想像よりもずっと脆い。
指が、止まらない。
戦いを書く。
和解を書く。
学園を書く。
神獣を書く。
原初悪魔を書く。
だが、
すべてをそのまま書くわけじゃない。
物語として、書き直す。
ノアが、コーヒーを置いた。
「砂糖は控えめにいたしました」
「頼んでないけど、ありがとう」
ミトラは、
原稿用紙の上で丸くなった。
――きゅ。
時間が、溶ける。
朝日が、カーテン越しに差し込んだとき、
画面には十万字を超えるテキストが並んでいた。
「……書けたな」
それは、告白でも、記録でもない。
物語だった。
俺は、ようやく分かった。
作家とは、
世界を歩く者ではない。
世界を、言葉で持ち帰る者だ。
ノアが、深く一礼する。
「お見事でございます、主」
ミトラが、満足そうに鳴いた。
――きゅ。
俺は、保存ボタンを押す。
この瞬間、
異世界も、管理者も、神々も関係ない。
ただ一人の人間が、
物語を書いた。
それだけで――
十分だった。
⸻
エピローグ(予兆)
数日後。
編集者からのメールが、届く。
件名:
「至急ご連絡ください」
本文は、短い。
「これは……
今までで一番の作品です」
俺は、静かに笑った。
ミトラが、肩で鳴く。
ノアが、窓の外を見る。
その向こうで、
世界は今日も、かろうじて保たれている。
物語が、
まだ書かれている限り。
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