第2話 死のルートを回避せよ
翌朝、レンはかつてない違和感で目を覚ました。 殺風景な隠れ家に、漂うはずのない香ばしい匂いが満ちていたからだ。
「おはよう、パパ。トーストは八つ切り、バターは薄めで良かったわね?」
キッチンでは、踏み台に乗ったミーナが慣れた手つきでフライパンを振っていた。 レンは無言で枕元の銃を手に取る。だが、安全装置(セーフティ)はかかっており、メンテナンスまで済まされていることに気づいて息を呑んだ。
「……お前、俺の獲物に触るなと言ったはずだ」
「あら、部品の摩耗を見逃すパパの方が悪いのよ。そのままだったら、今日の午後には暴発して死んでたわ」
ミーナは皿をテーブルに置き、当然のようにレンの向かいに座った。
彼女が語る「未来」の話は、荒唐無稽だが完璧に筋が通っていた。
十年後の未来。レンは組織を裏切り、一人の女性と結婚する。 だが、組織は裏切り者を許さなかった。結婚式の翌日、レンは最愛の妻を守るために盾となり、蜂の巣にされて命を落とす。
「……その妻というのが、お前だと言うのか」
「ええ。あなたが死んだ後、私は組織への復讐と、あなたを取り戻すことだけを考えて生きたわ。そして、未完成の精神転送機を奪って、この時代の自分の体に意識を飛ばしたの」
ミーナの瞳に、五歳の子供には到底似つかわしくない、深く暗い情念が宿る。
「本来の歴史なら、あなたは今日、組織の幹部暗殺を命じられる。そしてその現場で、味方の裏切りに遭って死ぬわ。……いいえ、死ぬはずだった」
その時、レンの通信チップが震えた。組織からの招集――ミーナの予言通りだ。 レンは迷った末、彼女を部屋に残して現場へ向かおうとした。だが、ミーナは玄関先で彼のコートの裾を掴んだ。
「パパ、今日のターゲットは偽物よ。本物は地下の配電室に隠れてる。……それから、相棒のジャックに気をつけて。彼はもう、組織に売られてるわ」
現場は、廃墟となった巨大なショッピングモールだった。
ミーナの言葉を裏付けるように、相棒のジャックは不自然な動きを見せ、レンの背後を取ろうとする。
「……ジャック。お前、何か隠してないか?」
「はは、何のことだ、レン? さっさと仕留めて帰ろうぜ」
ジャックが銃口を向けた瞬間、レンはミーナに教えられた通り、床に設置された消火用スプリンクラーの制御盤を撃ち抜いた。 視界が水煙で遮られる中、レンは背後の敵を制圧し、地下へ逃げ延びる。
「……本当に、全部あいつの言う通りか」
レンは震える手で通信機を切った。 組織を裏切るということは、この街で死ぬことと同義だ。だが、ミーナが提示した「生存ルート」の先には、これまで考えもしなかった景色が見えていた。
「パパ、聞こえる? 今の爆発で敵の配置が乱れたわ。非常階段から三階へ上がって。そこから外へ出れば、私が用意した脱出用バイクがある」
通信機から聞こえる幼い声が、今のレンにとっては唯一の道標だった。
辛くも包囲網を抜けたレンが、夕暮れ時のアパートに戻ると、ミーナは玄関で座り込んで待っていた。 彼女の顔は青白く、呼吸は荒い。小さな体に大人の精神を宿す負荷が、確実に彼女を蝕んでいた。
「……おかえり、パパ。これで、一つ目の『死の分岐点』を越えたわ」
「おい、しっかりしろ。ミーナ!」
倒れ込む彼女を抱きとめた時、レンは初めて気づいた。 彼女の腕には、いくつもの注射痕と、未来の技術で刻まれた不気味な回路の紋様があることを。
「無理をしたな……。なぜ、ここまでして俺を助ける」
「……約束、したでしょ。今度は、私があなたを守るって……」
ミーナは意識を失う寸前、レンの頬に小さな手で触れた。
それは紛れもなく、父親に向けるものではなく、愛する夫に向ける慈愛の眼差しだった。
だが、運命はまだ彼らを逃がさない。
窓の外では、組織の追撃部隊が放つドローンの赤い光が、無数に瞬いていた。
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