第五話:甘やかな均衡、密やかな共鳴
学園という社会において、「序列」の変化は驚くほど速やかに、そして音もなく浸透していく。
朝の一幕以来、僕を見る周囲の目は、明らかに「格差への嫉妬」から「アンタッチャブルな存在への畏怖」へと変わっていた。
清居 春樹という存在は、朝比奈 紬と九条 志乃という二つの巨大な重力によって、学園の生態系の外側へと押し出され、同時に保護されていた。
昼休みの屋上。
風はまだ冷たいが、コンクリートに反射する陽光は春の兆しを孕んでいる。
僕は一人、購買で買ったパンを齧る――という、かつての「構造的安寧」を求めていたのだが、現実はそう甘くはなかった。
「はい、春樹。あんた、放っておくと炭水化物ばっかり摂るんだから。これ、お母さんが多めに作ったからあげるわよ」
紬が、可愛らしい風呂敷に包まれた二段重ねの弁当箱を僕の目の前に突きつける。 「お母さんが」という言葉とは裏腹に、おかずの卵焼きの形は不揃いで、けれど丁寧に巻かれたその断面からは、早起きして格闘した痕跡がこれ以上なく詩的に漏れ出していた。
「……紬。これは、いわゆる愛妻弁当というやつか?」
「な、ななな……何言ってるのよ! 余り物だって言ってるでしょ! あんたの健康管理は、私の糸の一部なんだから、勝手に解(ほど)けさせないだけよ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ彼女の横で、志乃が優雅に、けれど確実に僕のパーソナルスペースへと侵入してくる。
「おやおや。紬様は、随分と賑やかなお料理どすな。……春樹様、私の方は、お口直しにこちらをどうぞ。冬の京野菜を炊いたものです。お疲れの胃に、一番優しい解(かい)かと思いまして」
志乃が差し出したのは、料亭の折詰めと見紛うばかりの繊細な小鉢だった。
彼女は僕の肩に頭を預けるようにして、箸を僕の唇へと運ぶ。
「あーん、しておくれやす。……拒まはったら、私、悲しくて午後の授業に出られへんかもしれませんわ」
紬が「卑怯よ!」と叫び、志乃が「あら、真実の愛に卑怯もあらへんのどす」とはんなりといなす。
僕は二人の熱量に当てられながら、自分の胃袋という構造が、二つの異なる愛情によって強制的に「上書き」されていくのを感じていた。
事件が起きたのは、放課後の廊下だった。
僕は教師に頼まれた書類を整理するため、一人で資料室へ向かっていた。その途中で、女子トイレの入り口付近に集まる数人の女子グループと、そこに立ち塞がる九条 志乃の姿を見かけた。
女子グループのリーダー格は、志乃の美貌と、彼女が一年生ながら学園の「特別」である春樹を独占していることに我慢がならなかったらしい。
「ねえ、九条さん。あなた、少し調子に乗りすぎじゃない? 一年生のくせに、上級生の清居先輩をたぶらかして。……いい加減にしないと、この学園に居場所なくなるわよ」
ありふれた、けれど粘着質な悪意。
だが、志乃は怯むどころか、まるで「道端に落ちている石ころ」を眺めるような、退屈そうな眼差しを彼女たちに向けていた。
「居場所、どすか。……ふふ。私の居場所は、春樹様の瞳の中にしかありませんの。そんなに広い場所を必要としない私にとって、貴女方の仰る居場所など、あってもなくても変わらぬ景色どす」
「なんですって……!」
女子グループの一人が詰め寄ろうとした瞬間、廊下に凛とした、そして氷のように冷たい声が響いた。
「――そこまでにしておきなさい。見苦しいわよ」
現れたのは、朝比奈 紬だった。 彼女は腕を組み、廊下を優雅に歩み寄る。その威圧感は、生徒会長代理を任されることもある彼女ならではの、圧倒的な「格」の証明だった。
「朝比奈さん……! 貴女だって、九条さんが邪魔でしょう? この子が先輩に色目を使っているから――」
「色目? ……笑わせないでくれる?」
紬は女子グループを、憐れみすら混じった瞳で見下ろした。
「この子が春樹にどれだけの執着(おもい)を向けているか、あんたたちには一生理解できないでしょうね。……九条さんは、私の『唯一のライバル』よ。あんたたちみたいな、表面しか見ていないモブが口出ししていい領域じゃないの」
志乃が、少しだけ意外そうに紬を見た。
紬は志乃の隣に立ち、女子グループに向けて、静かな、しかし確実な「宣告」を突きつける。
「春樹は、私たちが守る『聖域』なの。彼を不快にさせるような低俗な争いを持ち込むなら……私が、この学園のルールに従って、あんたたちの居場所を論理的に消去してあげる。……いいわね?」
女子グループは、二人の美少女が放つ「共犯者」のような気迫に気圧され、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
後に残ったのは、夕闇が差し込み始めた廊下の静寂。
「……紬様。助けていただいた……と言うべきどすか?」
「勘違いしないで。あんたがやられると、春樹が悲しむでしょ。それが嫌なだけよ」
紬はぷいと顔を背けた。
だが、その直後。
二人は、僕が壁の陰で聞いていることなど露知らず、視線を交わし、微かに微笑んだ。
「……そろそろ、次の段階どすな。紬様」
「ええ。あいつ、鈍感なくせに鋭いから。……予定通り、進めましょう」
二人は僕の知らない何かを、共有している。
それは昨日までの火花散る「敵対関係」とは明らかに質の異なる、奇妙に調律された「信頼」のような響きを持っていた。
「……春樹を、逃さないために」
「……春樹様を、幸せにするために」
二人の囁きは、放課後の風に乗って消えていった。
僕は、資料室の扉の前で立ち尽くし、手の中の書類を強く握りしめた。
構造が、変わろうとしている。
僕が描こうとしていた「解」よりも先に、彼女たちは、さらにその先にある「未知の数式」を組み立て始めているようだった。
翌日から、彼女たちの僕への攻勢は、さらに洗練された、逃げ場のないものへと変わっていくことになる。
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