第四話:朱に染まる誇り、静かなる宣告
朝の空気というものは、夜の澱みを洗い流すための洗剤のような役割を果たしている。
透明で、少しだけ尖った冷たさを持つ一月の風。それが肺の奥まで届くと、昨夜からこんがらがっていた僕の思考の回路も、わずかに熱を帯びて回り始めた。
家の門を開けると、そこには既に一つの「影」が落ちていた。
「……遅いわよ。三十二秒も」
朝比奈 紬は、ガードレールに背を預け、マフラーに顔を埋めるようにして立っていた。
吐き出される息は白く、寒さに耐えるように少しだけ肩を窄めている。その姿は、僕との十年間で何度繰り返されたか分からない日常の一光景だ。けれど、昨日「糸」のロジックを突きつけられた後の僕にとって、そのシルエットは全く別の重みを持って迫ってきた。
「紬。……本当に待っていたのか」
「当たり前でしょ。あんた、放っておいたらどこかに消えてしまいそうな危うさがあるんだから。私がしっかり手を引いておいてあげないと……」
彼女は僕の元へ歩み寄り、当然のような所作で僕のコートの裾を掴んだ。
指先を通して、彼女の微かな震えが伝わってくる。それは寒さのせいか、それとも僕に拒絶されることを恐れる心の揺らぎか。
「――おやおや。紬様は、随分とお早うございますね」
背後から、清冽(せいれつ)な泉のような声が響いた。
角を曲がって現れたのは、九条 志乃だった。冬の登校指定のコートを上品に着こなし、その口元には、薄氷のように危うくも美しい微笑を湛えている。
「春樹様、おはようございます。……今朝の光は、一段と澄んでおりますね。まるで、これからの私たちの時間を祝福してくれているようどす」
志乃は僕のもう片方の側に並び、紬に負けない自然さで、僕の腕を自分の腕へと招き入れた。
「九条さん。あんた、家は逆方向でしょ。……わざわざ回り道してまで、春樹を待ち伏せするなんて」
「ふふ、紬様。陽だまりを求める花が、日陰を歩くはずがありません。……貴女の仰る『糸』が、春樹様の歩幅を邪魔せぬよう、私が光を当てて差し上げねばなりませぬから」
歩き出した僕の左右で、火花が散る。
紬の「糸」は、僕を離さないという執着。
志乃の「陽だまり」は、僕を照らし続けるという献身。
二人の歩幅は、僕の歩みに寸分違わず調律されていた。そのあまりにも精緻(せいち)なシンクロ率に、僕は彼女たちがどれほどの覚悟で「僕の隣」という特権を死守しようとしているのかを、肌身で感じざるを得なかった。
学園の校門をくぐると、周囲の視線は一変した。
朝比 奈紬と九条 志乃。
学園の二大美少女が、パトロンのように一人の男を侍らせているその光景は、もはや「羨望」を通り越して「怪奇現象」に近い衝撃を周囲に与えていた。
そして、その異様な光景に耐えかねた「雑音」が、僕たちの前に立ちはだかった。
「……おいおい、清居。お前、いい加減にしろよ」
立ち塞がったのは、三年生の中村だった。
県内有数の資産家の息子であり、成績も優秀、そして何より自らのプライドを肥大させることに余念がない、典型的な「格差」を好む男だ。彼は取り巻きを連れ、僕を蔑むような目で見下ろした。
「朝比奈さんに九条さん。君たち、こんな冴えない奴に付き合わされるのは時間の無駄だ。清居、お前はただの観察者がお似合いだろう? 優れた宝石(彼女たち)に触れる資格なんて、お前のようなモブにはないんだよ」
中村の言葉は、この学園の、あるいは社会の「構造」から見れば、一定の筋が通っているのかもしれない。美しき者、強き者、そして富める者。それらが結びつくのが論理的であり、僕のような「ただの人間」は、その景色を外から眺めているのが正しい立ち位置だ。
だが。
僕が答えるよりも早く、僕の腕を掴む二人の少女が動いた。
「……資格?」
最初に声を上げたのは、紬だった。
その声は低く、そして驚くほど冷徹だった。彼女は中村の方を向きもしないまま、ただその男の存在自体を拒絶するように言い放った。
「あんたの言う『資格』なんて、そんな安っぽい言葉で春樹を測らないでくれる? 私たちが十年かけて編み上げた時間の価値も分からないような、表面だけの人間(デクノボウ)に。……失礼よ。私の糸が、あんたの汚い言葉で汚れるわ。消えなさい」
中村が言葉を失う。続けて、志乃がはんなりと微笑みながら、追い打ちをかけた。
「中村様、どしたか。……貴方の仰る『宝石』という言葉、心外どすな。私は春樹様という光に照らされて、初めて命の色を付けた花どす。……光のないところに宝石は輝きません。そして、私の春樹様は、貴方のような方の濁った瞳に映るほど、お安い存在ではあらへんのどす」
志乃の微笑みは、もはや慈悲ですらなかった。
それは、自分たちの信仰する絶対的な価値(春樹)を汚されたことへの、静かなる処刑宣告だ。
「……何、を……。お前ら、たかが清居ごときに……!」
「『たかが』? ……その一言で、あんたの人生が底の浅い余白だっていうことが証明されたわね」
紬が冷たく突き放すと、周囲からは失笑が漏れ始めた。
中村は顔を真っ赤にし、自らのプライドが、自分の見下していた男の「隣にいる者たち」によって木っ端微塵に粉砕されたことにようやく気づいたようだった。彼は捨て台詞さえ吐けず、崩れ落ちるようにその場を去っていった。
「……春樹。余計な雑音に、耳を貸さないで」
「春樹様。……汚いものは、私がすべて掃除しておきますからね」
彼女たちは再び僕に向き直り、先ほどまでの冷徹さが嘘のような、蕩(とろ)けるような愛を瞳に宿した。
周囲は、確信した。
清居 春樹という男は、ただモテているのではない。
彼は、あの二人の「怪物のような美少女」たちを繋ぎ止める、唯一の理(ことわり)なのだと。
僕は、彼女たちの手のぬくもりを感じながら、胸の内で密かに「構造」を練り直していた。
ざまぁ、というほどの激情はない。
けれど、僕を守るという名目で世界を敵に回しかねない彼女たちを、どうやってこの日常の枠組みの中に収めるべきか。
僕が導き出そうとしている「解」は、想像以上に困難で、そして想像以上に甘美なものになりそうだった。
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