第三話:闖入者と、保留された境界線

 張り詰めた弦が、無遠慮な指先によって弾かれたような。  


 あるいは、精緻に組み上げられた硝子の工芸品が、石ころ一つで粉々に砕け散ったような。  


 そんな、あまりに無慈悲で日常的な破壊音が、放課後の教室に響き渡った。


「――おーい! 清居! わりぃ、筆箱忘れたわ!」


 引き戸を勢いよく開け放ち、教室の空気をかき回しながら現れたのは、クラスメイトの佐竹だった。  


 彼は教壇のあたりで足を止めると、窓際で展開されていた異様な光景――学校中の男子が羨む二大美少女が、一人の男の腕を左右から奪い合っているという、神話のような一幕――を、その丸っこい瞳に映し出した。


「あ……」


 佐竹の動きが止まる。  


 朝比奈 紬の、射殺さんばかりの鋭い視線。

 九条 志乃の、微笑みを貼り付けたまま凍りついた圧力。  


 その二つの巨大な質量に挟まれた清居春樹の、死を覚悟したような達観した表情。


 佐竹は、状況を理解した。間違いなく、今この瞬間、彼はこの学園で最も踏み込んではいけない聖域に、土足で、しかも全力疾走で踏み込んでしまったのだ。  


 普通なら、ここで「すみませんでした」と静かに引き下がるのが正解だろう。だが、佐竹という男は、妙なところで「空気を読んで、あえて空気を読まない」という高等(あるいは低俗な)技術を身につけていた。


 ここで自分が逃げれば、清居の命はない。  


 彼はそう直感したのか、あるいは単なる悪ふざけか、あえて大きな声で、より無神経に振る舞うことを選んだ。


「なんだなんだ? 清居、お前そんなところで何やってんだよ。掃除当番、サボってんのか?」


 佐竹はズカズカと僕たちの元へ歩み寄ると、紬と志乃の間に強引に割り込み、自分の筆箱をひっ掴んだ。


「ほら、帰るぞ清居! 駅前のラーメン屋、今日から限定メニューらしいぜ。……あ、朝比奈さんも九条さんも、清居をあんまりいじめないでやってくれよ。こいつ、これでも繊細なんだからさ」


 紬の肩が、怒りで震える。


「……あんた、自分が今、どれだけ万死に値することをしたか分かってるの?」


「万死? 勘弁してくれよ。筆箱一つでそこまで言われる筋合いねーって」


 志乃の方は、ふっと力を抜いて僕の腕を離した。


「……ふふ。これ以上は、興醒めどすな」  


 彼女は小さく溜息をつき、乱れた制服の裾を優雅に整えた。


「春樹様。続きは、また明日にいたしましょう。……夜風に当たって、よう考えておくれやす。……逃げ道など、どこにもあらへんのですから」


 志乃ははんなりと微笑み、優雅な所作で教室を後にした。  


 紬も、真っ赤になった顔を隠すように背を向け、カバンを掴む。


「……春樹。明日、あんたの家の前で待ってるから。逃げたら……その糸、本当に引きちぎってあげるわよ」


 捨て台詞を残し、紬もまた足早に去っていった。  


 静寂が戻った教室に、僕と、そして「筆箱を持って満足げな」佐竹だけが取り残された。


「……助かったのか、僕は。それとも、とどめを刺されたのか」


「さあな。でも、あのままじゃお前、窒息死してたぜ?」  


 佐竹はニヤリと笑い、僕の肩を叩いた。


「せいぜい、悩み抜くんだな、親友」


 その夜。  


 僕は自室の机に向かい、開いたままのノートを見つめていた。  


 構造。論理。因果。  


 僕が愛してきたそれらの言葉は、今、二人の少女の感情という巨大な不条理の前に、全くの無力と化していた。


 紬が説いた、十年の歳月という重み。  

 志乃が説いた、生存の理由としての執着。


 どちらも、嘘ではない。  


 そして僕にとっても、紬のいない日常は色彩を失うし、志乃のいない静寂はただの孤独に成り下がる。  


 構造的に言えば、僕の人生というノートには、既に二人の筆跡が入り乱れて書き込まれているのだ。どちらかのページを破り捨てることは、僕自身の存在を損なうことに他ならない。


「どちらかを選ぶということは……」


 僕は窓を開け、夜の冷たい空気を吸い込んだ。  


 空には、不完全な形をした月が浮かんでいる。


 どちらかを選ぶことは、もう一人の想いを殺すことだ。  


 それは僕の誠実さが許さない。  


 だが、二人とも選ぶことは、この社会の論理が許さない。


 僕は、自分の胸に手を当てた。  


 朝比奈 紬という「糸」。  

 九条 志乃という「陽だまり」。


 もし、この二つの美しい要素を、一つの構造として成立させることができるとしたら。  


 不完全な選択ではなく、誰もが「仕方ない」と認めてしまうような、そんな圧倒的に幸福な「公式」を構築できるとしたら。


「……やってみる価値はある、か」


 僕は独り言を呟き、ペンを走らせた。  


 明日から始まるであろう、二人の猛攻。  


 そして、それを取り巻く周囲の雑音。  


 それら全てを材料にして、僕は僕なりの「解」を編み出す必要がある。


 翌朝。  


 家の門を開けると、そこには既に「糸」が待っていた。  

 そしてそのわずか数歩後ろには、静かに微笑む「陽だまり」が。


 僕の、そして彼女たちの、長くて短い「特別な日常」が、本格的に幕を開けようとしていた。

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