第二話:月光の廊下、消えない陽だまり

 教室の温度が、数度下がったような気がした。  


 朱色に染まっていた世界に、九条 志乃という「静謐(せいひつ)」が混じり合う。彼女が纏(まと)う空気は、紬の放つ熱量とは正反対の、ひんやりとした、けれど一度触れたら離れられない深海のような心地よさを持っていた。


「……九条さん。あんた、いつからそこにいたのよ」


 紬が僕の腕を掴む力を強めながら、志乃を鋭く睨(にら)みつける。その瞳には、幼馴染という特権を侵されたことへの、剥き出しの敵意が宿っていた。  


 しかし、志乃は柳に風と受け流し、柔らかい微笑みを絶やさない。


「さぁ、いつからどしたか。紬様が、春樹様の人生を『糸』になぞらえて語り始めたあたりから、つい聞き惚れてしまいましたわ」


 志乃は僕のもう片方の袖に指をかけ、至近距離まで顔を寄せた。  


 彼女の瞳は、黒真珠のように潤んでいる。その奥には、言葉の優しさとは裏腹な、底の知れない執着の影が揺らめいていた。


「春樹様。……紬様は、積み上げた時間を誇りはりました。けれど、私は時間の長さよりも、その『純度』を信じたいのどす」


 彼女の声は、鈴を転がすような透明感を持って、僕の鼓膜に直接染み込んできた。


「かつての私は、光のない冷たい部屋におりました。感情に色を付ける方法も、誰かに心を寄せる作法も知らん、ただの空っぽの器やった。……それを救い出してくれはったのは、春樹様の何気ない祈りどした」


 志乃が語るのは、去年の冬のことだ。  


 誰にも気づかれずに図書室の片隅で蹲(うずくま)っていた彼女に、僕はただ、一冊の本を差し出し、明日の天気が晴れることを願うような言葉をかけた。僕にとっては日常の一部だった観察の結果に過ぎないが、彼女にとっては、それが暗闇に差した唯一の「陽だまり」だった。


「春樹様の声を聞くたびに、私の世界には一色、また一色と色がついていきました。……今では、春樹様のいない世界は、私にとって酸素のない真空と同じこと。息をすることすら、忘れてしまいそうになるのどす」


 志乃の告白は、紬のものとはまた違うベクトルの「正論」だった。  


 紬が「過去からの積み重ね」を説くなら、志乃は「現在における生存の必然性」を説いている。どちらも詩的でありながら、僕という存在を自らの人生の「基点」として定義している点では共通していた。


「な……。九条さん、あんた何を言ってるのよ! 春樹は、私の――」


「紬様。……先ほど、『糸を無理やり引きちぎれば心が千切れる』と仰いましたね。それはとても、おいたわしいことどす」


 志乃はふっと視線を紬に向けた。その微笑みは変わらないが、瞳の温度だけが絶対零度まで凍りついている。


「けれど。陽だまりを奪われた花がどうなるか、ご存知ですか? ……ただ枯れるだけではありません。根の先まで腐り果てて、二度と芽吹くことのない絶望に沈むのどす。……私は、そんな無粋な真似、春樹様にはさせたくありませんわ」


 二人の美少女が、僕を挟んで視線をぶつけ合う。  


 教室の空気は、もはや放課後のそれではない。  


 美しくも重厚な、二つの愛の論理が衝突する戦場と化していた。


 紬の「糸」は、僕を強く繋ぎ止め、離さない。  

 志乃の「陽だまり」は、僕を優しく包み、逃さない。


「春樹、答えなさい。私の糸を、これからも紡ぎ続けるって……そう言いなさいよ!」

「春樹様。……私の呼吸の、その一部になっておくれやす。……拒まれるなら、私はここで、息を止めてしまいます」


 逃げ場はなかった。  


 紬のツンとした強気な瞳の奥にある、震えるような不安。  

 志乃のはんなりとした笑みの裏にある、狂気的なまでの切実さ。


 どちらも、僕が知る彼女たちの本質であり、僕が肯定してきた彼女たちの「格」そのものだ。どちらか一人を選ぶということは、もう一人の存在理由を根底から否定することに他ならない。


 僕は、震える唇を開こうとした。  


 構造を愛する僕が、この不完全で、けれど最高に美しい二つの愛に対して、どのような「解」を導き出せるのか。


「僕は――」


 僕の言葉が、形を成そうとしたその瞬間だった。


「――おーい! 清居! わりぃ、筆箱忘れたわ!」


 静寂を、そして二人のヒロインが作り上げた極限の均衡を、一陣の爆風のような無神経さが切り裂いた。

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