1話目 孤独、覚醒
二〇二五年、十二月。
横浜の居酒屋から吐き出された喧騒と、使い古された油の匂いが、冷たい夜風にさらわれていく。
「またな、健一。お前、本当に……いつまで経っても変わらねえな。化け物かよ」
小学校時代の同級生、田中が、酒焼けした赤い顔で笑いながら健一の肩を叩いた。田中の手は、加齢によって節くれ立ち、いくつものシミが刻まれている。健一は「まあ、不摂生してないからな」と、これまで数千回繰り返してきた空虚な答えを返し、田中の背中を見送った。
一人、街灯の下に取り残される。
健一は、ショーウィンドウのガラスに映る自分を見つめた。
そこには、二十代半ばの、瑞々しい肌を持った青年が立っている。
背筋は真っ直ぐに伸び、視力は夜の闇の奥まで見通せるほど鋭い。一方で、先ほどまで卓を囲んでいた友人たちはどうだ。頭髪は薄くなり、膝の痛みを訴え、孫の写真を自慢し、やがて来る「死」の影を笑い飛ばすことでやり過ごしていた。
(四十代までは、若作りで通せた。だが……)
六十歳。還暦。
公務員としての職を全うし、定年を迎えた今、この姿はもはや「若さ」という美徳ではなく、生理的な「違和感」に変わっている。
隣を歩く人々は、健一を「自分たちより経験の浅い若者」として扱う。しかし、健一の精神は、彼らと同じ、あるいはそれ以上の月日をこの国で重ねてきた。
共に育った親友が、老いていく。
親代わりだった渋澤の夫婦は、十数年前に、白髪の老人としてこの世を去った。
葬儀の時、「息子さんですか?」と親戚に尋ねられた時の、胸を切り裂かれるような孤独。
自分だけが、流れる川の底に沈んだ石のように、時間の流れから隔絶されている。
「……寒いな」
呟いた声は、驚くほど若々しく、艶があった。
健一はマフラーに顔を埋めた。この六十年間、自分が何者なのかを調べようとしなかったわけではない。だが、戸籍も、幼少期の写真も、すべてはあまりに「完璧」に用意されていた。
自分が誰なのか。なぜ自分だけが、世界の理から外れているのか。
孤独は、冬の星のように冷たく、静かに彼を包み込んでいた。
横浜の自宅へと向かう坂道で、健一はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。画面に表示されているのは、妹の真由美から届いたメッセージだ。
『兄さん、定年おめでとう。お祝いは来週の週末でいいかな? 病院のカンファレンスが長引きそうで。』
渋澤家の実子である真由美は、健一の三歳年下だ。今は都内の大学病院で外科医として辣腕を振るい、学会でも名を馳せるエリートである。
幼い頃、怪我をすれば泣きながら僕に手当てをされてた少女は、今や多くの命を救う立派な大人になった。
(真由美は、もうすぐ還暦か……)
白衣を纏い、目尻に刻まれた年相応の皺を誇らしげに見せて笑う妹。彼女が医師の道を志したのは、幼い頃に体調を崩しがちだった兄――健一を「自分が治してあげる」と決意したからだった。
皮肉な話だ。
不老の体を持つ自分を案じ、人間として老いていく妹。彼女にとって健一は、いつまでも守るべき「ひ弱で若々しい兄」のままなのだ。
家に着き、明かりを落としたリビングで、健一は一人、ウィスキーのグラスを傾けた。
ふと、視界の端で火花が散ったような気がした。
(……まただ)
最近、時折「見ていないはずの記憶」が脳裏をよぎる。
それは横浜の夜景ではなく、燃え盛る黄金の森。
自分を抱きしめる、花の香りがする女性の柔らかな感触。
そして、空を覆い尽くす、見たこともない形状の「鉄の鳥」たち。
「……夢、だろうな。六十年も前の」
健一は頭を振り、寝室へと向かった。
明日からは、もう仕事に行く必要はない。このまま静かに、真由美の子供たちの成長を見守り、誰にも気づかれずに姿を消す。それが「渋澤健一」の終着駅のはずだった。
――午前二時十五分。
音もなく開いた寝室のドア。暗闇の中から現れた影たちは、健一のベッドを取り囲むと、一斉にその場に片膝をついた。
それは、暴漢の動きではない。古の儀礼に基づいた、騎士の臣礼だった。
「――我らが正統なる王、アルヴィス陛下」
低く、地を這うような、けれど極限の敬意がこもった声が響く。
リーダー格と思われる男が、青く光るタクティカル・デバイスを捧げ持つようにして健一に顔を向けた。その瞳には、狂信的なまでの熱が宿っている。
「な、んだ……何を……」
健一が当惑し、身を起こそうとした瞬間、男が忙しくデバイスのキーを叩いた。
「失礼を。陛下の御身を縛る『連合』の枷はあまりに強固。荒治療をお許しください。……『真銘解放(リブート)』」
デバイスから放たれたのは、暴力的な光の奔流だった。
それは健一を傷つけるためのものではなく、彼の脳の奥底、前頭葉のさらに深淵に打ち込まれた「国際標準の忘却処理」を物理的に焼き切るためのプログラム。
「ぐ、あああああああ――ッ!!」
脳が沸騰するかのような激痛が健一を襲う。
視界の裏側で、六十年間大切に守ってきた「渋澤健一」の記憶――妹・真由美と食べた夕食の味、養父母の優しい笑顔、市役所での退屈だが愛おしい日々――が、激しいノイズと共に剥がれ落ちていく。
そのノイズの裂け目から、黄金の光が溢れ出した。
『アルヴィス、生きなさい。いつか、再びこの地に光を』
母の、キルケーの女王の声が、六十年の時を超えて鼓膜を震わせる。
健一の全身の毛穴から、人知を超えた魔力が蒸気のように立ち上り、寝室の窓ガラスがその圧力だけで粉々に砕け散った。
「おお……見よ。この高貴な魔力を。六十年の封印に耐え、現代の技術と混ざり合い、より強固に昇華されている」
実行犯たちは、ガラスの破片が肌を裂くのも厭わず、悦悦としてその場に平伏した。
「我らキルケーの遺臣、そして最新の魔導を奉る騎士団。陛下を、真なる玉座へと導きに参りました。……さあ、偽りの『人間』の夢を終わらせましょう」
光が収まったとき、ベッドの上にいたのは「困惑する老人」ではなかった。
冷徹なまでに透き通った瞳。
一国の主としての、圧倒的な威厳。
アルヴィスは、己の瑞々しい手を見つめた。
六十年、なぜ自分がこれほどまでに「完成」されていたのか。
すべてを理解した王の唇から、低く、けれど部屋全体を震わせる声が漏れる。
「……私の、国は……キルケーは、今、どうなっている」
深夜の横浜を滑るように走る漆黒のバン。車内には、革張りのシートの匂いと、いくつものモニターが発する無機質な電子音が充満していた。
正面の座席に座る老紳士が、震える手で眼鏡を拭い、食い入るように健一を見つめていた。白髪混じりの髪を完璧に整えたその男は、健一が名を呼ぶのを、あるいはその瞳が自分を捉えるのを、祈るように待っている。
「……ローレンツ、か。あの時、泣き虫だった見習いの……」
健一が、混濁した記憶の底から掬い上げた名を口にした瞬間。
老紳士――ローレンツの喉から、堰を切ったような嗚咽が漏れた。
「……覚えていて、くださったのですか。陛下をお守りできず、転送陣の影で震えていた、あの出来損ないの私を……ッ」
ローレンツはシートからずり落ちるようにして床に跪き、健一の若々しい手に、自らの皺の寄った額を押し当てた。
一九六六年、キルケー陥落。あの日、ローレンツは血を流しながらもアルヴィスを逃がそうとした少年騎士の一人だった。六十年の歳月は、健一を青年の姿で凍結させたが、ローレンツを老いた指導者へと変貌させていた。
「陛下、申し訳ございません。お迎えにあがるまで、六十年も。……連合の監視網は、あまりに分厚く、卑劣でした」
ローレンツが語るキルケーの民の現状は、健一の痛む頭をさらに苛んだ。
故郷を追われた民たちは、世界各地で「戸籍のない難民」として、国家連合の追跡から逃れ続けているという。
「島を離れ、魔力を失った我々に残されたのは、かつての叡智だけでした。ある者は地下の電脳街で不法なハッカーとして日銭を稼ぎ、ある者は身分を隠し、社会の底辺で汚れ仕事を請け負い……。みな、ただ生き延びることだけで精一杯だったのです。帰るべき場所も、導くべき『王』もいない、出口のない暗闇の中で……」
ローレンツの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
健一は、激しい眩暈に襲われ、革のヘッドレストに深く頭を預けた。
(……キルケー、アルヴィス、渋澤、真由美……)
六十年分の「日本人・渋澤健一」としての平穏な記憶と、たった四年間だが鮮烈すぎる「王子・アルヴィス」としての記憶が、脳内で激しく衝突し、火花を散らしている。
無理やりこじ開けられた封印の傷跡がズキズキと痛み、指先一つ動かすのさえ億劫だった。
「陛下……? お顔色が優れませんな」
「……すまない、ローレンツ。少し、整理させてくれ。頭の中が、ぐちゃぐちゃだ」
健一は震える指でこめかみを押さえた。
島を離れれば魔法すら使えない、ただの「若すぎる六十歳」。そんな自分が、世界中に散った民をどうこうできるなど、今の状態では到底考えられなかった。
ただ、一つだけ確かなことは、このまま「渋澤健一」として横浜の自宅へ戻る道は、もう断たれたということだ。
「……取り敢えず、島へ連れて行ってくれ。話は、そこへ着いてからだ」
「御意に、陛下。島へと続く海路は既に確保しております。連合の目から逃れるための、最新のステルス艇が待機しております」
健一は目を閉じ、遠く離れた大学病院で、まだ何も知らずに戦っている妹・真由美の姿を思い浮かべた。
――ごめんな、真由美。兄さんはどうやら、お前の自慢の兄貴ではいられなくなったらしい。
バンは高速道路をひた走り、横浜の灯りが遠ざかっていく。
それは、「渋澤健一」という一人の男が死に、伝説の島「キルケー」が再起動するための、あまりに静かな序曲だった。
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