キルケー・リブート

@makomoko0760

プロローグ 箱庭の終焉、忘却の檻

一九六六年、夏。

 北緯、東経、そのいずれの海図からも抹消された聖域、キルケー。数千年の間、精霊の歌声と強固な認識阻害の霧に守られてきたその黄金の島は、今、鉄と油の匂いに塗りつぶされていた。

​ 空を裂くのは、神話の巨鳥ではない。

 キィィィィン、という鼓膜を突き破らんばかりの金属音を轟かせ、灰色の翼を持つジェット戦闘機が編隊を組んで、聖域の空を蹂躙している。雲を突き抜けて急降下する機体から放たれるのは、神の雷ではなく、高熱のナパーム弾であった。

​「――お母様、熱いよ。森が、泣いてる……っ」

​ 四歳のアルヴィスは、母のドレスの裾をちぎれんばかりに握りしめていた。

 エルフの瞳は、万物の精霊を視る。彼には、逃げ惑う同胞たちが背後から「鉛の弾丸」に射抜かれ、霊子を霧散させて崩れ落ちる様が、残酷なほど鮮明に見えていた。森の木々が発する悲鳴が、少年の幼い精神を激しく揺さぶる。

​「アルヴィス、見なさい。あれが、彼らの言う『文明』という名の略奪です」

​ 母――アヴァロンの女王は、燃え盛る王宮のバルコニーで膝をついた。彼女の凛とした美貌は、煤と涙に汚れながらも、気高い光を失っていない。

 王宮の広場では、エルフの騎士たちが、精霊の加護を宿した銀の剣を振るっていた。しかし、一振りで岩をも砕くその剣も、数百メートル先から放たれる自動小銃の弾幕と、装甲車の無慈悲な突進の前には、ただの美しい工芸品に過ぎなかった。

​「彼らは、自分たちの理解を超えた神秘を恐れ、ただの資源として管理しようとしている。……いいえ、それ以上に彼らは、自分たちより遥かに長く生き、美しい魂を持つ我々が、ただ許せないのです」

​ ドォォォォォン!

 地響きとともに、白亜の塔が根元からへし折れた。水平線の彼方に陣取った連合軍艦隊による、十六インチ砲の艦砲射撃だ。

 アルヴィスは、母の腕の中に抱き寄せられた。母の体からは、いつもの甘い花の香りではなく、焦げた肉と硝煙の臭いがした。女王の胸元には、一発の銃弾が深く食い込み、真紅の血がその純白のドレスを汚している。

​「アルヴィス。あなたは、彼ら人間と全く同じ姿を持って生まれました。耳の形も、瞳の色も、人間と見分けがつかない。それは呪いではなく、神があなたに与えた最後の『盾』なのです」

​ 女王の手が、アルヴィスの小さな額を覆う。

 彼女の指先から、灼熱のような魔力が流れ込んでくる。それは優しく、けれど抗いようのない強制力で、アルヴィスの意識を深い闇へと引きずり込んでいく。

​「生きて、アルヴィス。いつか、再びこの地に光を。……それまで、あなたの魂は、偽りの平穏の中で眠りなさい。我が愛しき子よ……」

​ 母の最後の言葉は、急降下してきた爆撃機の轟音にかき消された。

 アルヴィスが最後に見た故郷は、黄金の森が真っ赤な火の海に沈み、愛する人々が泥にまみれて絶命していく、この世の地獄のような光景だった。


数週間後。

 場所は変わり、冷戦の緊張が漂う某国の地下。

 そこは日光の一切届かない、無機質なコンクリートと蛍光灯の瞬きだけが支配する、生きた檻だった。

​ アルヴィスは、硬い手術台の上に皮ベルトで固定されていた。

 彼の周囲には、巨大な真空管を搭載した黎明期の電子計算機が不気味な唸りを上げ、壁一面に配置された磁気テープがカタカタと乾いた音を立てて回転している。

​「検体番号〇七。バイタル、安定。……驚異的な生命力だ。あの飽和攻撃の中で、精神的ショック以外の損傷がほとんど見られないとは」

​ 白いコートを着た男が、フィルターのないタバコを深く吸い込み、紫煙を吐き出しながらカルテに万年筆を走らせていた。

 彼の腕には、複数の大国の国旗が組み合わさった、謎の国際組織――『特殊事案対策連(S.C.U)』の腕章が巻かれている。

​「記憶の凍結処理、最終段階へ移行。……本気でやるつもりですか、准将。彼はまだ四歳です。この年代の脳にこの電圧をかければ、廃人になりかねません」

​ 助手の若い医師が、震える手で制御盤のスイッチに指をかけた。

 部屋の隅、影の中に立つ灰色のスーツを着た男が、冷徹な声で答える。

​「これは『人道的保護』という名目の、完璧な抹殺だ。彼が自分が王族であることを自覚したまま成長すれば、将来的にキルケー復興運動の旗印となる。エルフという火種は、ここで完全に消去しなければならない。……我々人間が、この地球の唯一の主導者であることを証明するためにな」

​ 高官は、タイプライターで無機質に打たれた極秘書類に「人道的処置:移送先・日本」と書かれた赤いスタンプを力任せに叩きつけた。

​「日本政府は、この『特殊な孤児』の受け入れを承諾した。戦後の混乱が続き、アメリカの顔色を伺うしかない極東の島国だ。あちらの政府には外圧をかけ、適当な戸籍を与えて『渋澤健一』という名で育てさせる。監視の目は一生つけるがな」

​「……この子の内に眠る魔力はどうする?」

​「キルケーから略奪した封印の禁呪と、我が国の最新脳科学を融合させたこの装置が、全てを眠らせる。彼が死ぬまで、自分が精霊と対話できたことなど、夢の断片にすら出てこないだろう。彼は、ただの『老いることのない欠陥品』として、孤独に死んでいくのだ」

​ ガチャン、という重い金属音とともに、巨大な給電レバーが倒された。

 少年の頭部に固定された電極を通じて、強烈な電圧と「忘却」の概念を上書きする術式が流れ込む。

 

 あ、ああああああああああああああ――ッ!

 

 幼い悲鳴は、真空管の放熱ファンの音にかき消され、誰の耳にも届かない。

 黄金の森、母の温もり、騎士たちの勇姿、そして『アルヴィス』という自分の名前。

 それら全てが、真っ白なノイズへと塗りつぶされていく。

​ 数時間後。

 そこには、ただ虚ろな瞳で天井の蛍光灯を見つめる、自分の名すら忘れた四歳の少年だけが残された。

​「処理、完了。……明日の深夜便で羽田へ送れ。渋澤夫婦という、子宝に恵まれず、過去に政府への借りのある夫婦をピックアップしてある。彼らには『これは国家の最重要義務だ』とだけ伝えておけ」

​ 一九六六年。

 一人の王子が歴史から抹消され、一人の「平均的な日本人」が誕生した。

 激しい雨の夜、軍用機が重苦しいエンジン音を響かせながら、滑走路を飛び立つ。

 その機内に、自分の正体も、故郷の悲劇も、全てを奪われたまま眠る少年が乗っていることを知る者は、世界に数人もいなかった。

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