第7話 その一歩は前に進むために

振り上げた刃先が、父親の胸に触れようとしたその瞬間。

「……なっ、何してるの! やめなさいクロエ!!」

背後から突き飛ばされるような衝撃。 目を覚ました母親が、なりふり構わずクロエの体に組み付きました。

「包丁を捨てて! 冗談じゃないわ、こんなことしてどうなると思ってるの!」

母親の力は、これまでの彼女からは想像もできないほど必死で、強引なものでした。 クロエは床に倒れ込みながら、泣き叫ぶような声をあげました。

「お母さん……っ! なんで、なんで今さら止めるの!? 私が殴られてる時も、走らされてる時も、ずっと見て見ぬふりをしてたじゃない!! 私のことは守ってくれなかったのに、なんでこの人の事は守るの!!」

これまでの理不尽、孤独、絶望。そのすべてが怒りとなって母親にぶつけられます。 しかし、母親はクロエの言葉に答える代わりに、ただ必死に包丁を奪い取ろうと、娘の手をねじり上げました。

「ダメよ…! お父さんがいなくなったら、私が、私の、生活はどうなるの。ニュースになったらここにだって住めなくなる。この家を壊さないで!」

母親が守ろうとしたのは、自分が辛うじて維持している『家庭」という名の形骸化した安寧だった。恐れたのは娘の未来や夫の命を失うことではなく、それによる生活の破綻だった。

クロエの心から、最後の希望の欠片が零れ落ち、深い闇の底へと沈んでいった。 自分の母親にとってさえ、自分は家を壊す邪魔者でしかなかったのだ。

「……あ、あはは……」

暗闇の中、クロエの口から乾いた笑いが漏れました。

「うるさいぞ…何を騒いでいる…」

そして…。騒ぎに気づき、父親が薄らと目を開け始めた──。



 ──配信を終えたスタジオ。機材のファンが回る音だけが響く静寂の中で、サクラは一人、コメント欄が画面を食い入るように見つめていた。

「おつさくら。さよなら」

 コメント欄に残された、古参リスナー『クロ』の言葉。配信者として、そしてあの日公園でクロエと接した一人の人間として、サクラの直感が警鐘を鳴らし続けていた。

公園で佐々木さんから聞いた『地獄』。そして今夜の、全財産を投げ打つような一万円のスパチャと、永遠の別れを告げるような「さよなら」の四文字。

 もし、あの子が『朝野サクラ』の強さに、歪んだ形で憧れてしまったのだとしたら。  もし、あの子が言う「一歩踏み出す」という言葉が、未来へ進むためではなく、何かを「終わらせる」ための勇気と決意だとしたら。

「……だめ。そんなのダメだよクロさん」

 サクラはスマホに飛びつくと、交換した佐々木さんの連絡先へと指を走らせた。時間はすでに夜中。非常識なのは百も承知だ。けれど、今かけなければ一生後悔するという、根拠のない確信が彼女を突き動かしていた。

「お願い、出て……!」

 コール音が、サクラの鼓動とシンクロするように鳴り響く──。



──理性が吹き飛ぶような衝撃が、クロエの視界を真っ白に染め上げた。

「この……親不孝者がぁッ!!」

目を覚ました父親の瞳に宿ったのは、後悔でも、恐怖でも無かった。自分を殺そうとした『所有物』に対する、煮えたぎるような怒りと支配欲。 父親は、張り倒されたクロエから包丁を奪い取ろうとしていた母親を突き飛ばすと、そのままクロエの髪を掴み、床に叩きつけた。

「生かしてやってる恩を忘れやがって……!誰のおかげで生活が出来てると思っているんだぁっ!」

容赦のない拳が、蹴りが、クロエの小さな体を何度も跳ね上げた。 床に倒れ伏した母親は、ただ震えながら耳を塞ぎ、目を逸らしていた。さっき包丁を取り上げた時のような必死さは、もうどこにもみられない。彼女が守りたかったのは、やはり娘ではなく、自分だったのだ。

(……痛い。……痛いよ、サクラちゃん……)

意識が朦朧とする中で、クロエの脳裏に、画面越しに見てきたサクラの姿が映った。 高難易度のゲームで、何度負けても、何度「GAME OVER」の文字を突きつけられても、「桜は散っても、また咲く」と笑ってコントローラーを握りしめる、あの真っ直ぐな背中。

サクラちゃんは、諦めなかった。 だから、私も。

吹き飛ばされたクロエの指先が、偶然にも床に転がっていた包丁の柄に触れた。

「死ねッ! 出来損ないが!!」

振り下ろされる父親の太い腕。 その瞬間、クロエは残されたすべての力を足に込め、立ち上がる。 逃げるためではなく、前に進むために。

「あああああああああああッ!!!」

少女の叫びが、深夜の住宅街に響き渡った──。



「──お姉さん!」

2回目のコールでつながった電話の向こうから、佐々木さんの救いを求めるような、悲痛な叫びが聞こえた。

「佐々木さん!?どうしたの。何を慌てているの?」

サクラの胸に暗い予感がよぎる。ただごとではない。すでに、何かが起こっている。

「あの、わたしも配信を見てて。クロエちゃんの様子がなんだかおかしくて。どうしても心配になっておうちに来てみたの。そしたら、そしたらおうちから大きな音がするの!包丁を捨ててって、クロエちゃんのお母さんの声が聞こえて!」

 心臓が口から飛び出しそうなほどの動悸。けれど、ここで自分が崩れたら、あの子は本当に終わってしまう。サクラは震える手で、デスクにあったメモ用紙に佐々木さんから聞き出した住所を猛烈な勢いで書き殴った。

「……マネージャー!!」

 部屋の外にいたマネージャーを大声で呼びつけます。驚いて入ってきたマネージャーの手に、サクラはそのメモを叩きつけました。

「これ! 今すぐ、この住所に警察と救急車を呼んで! 殺人事件が起きるかもしれない、急いで!!」

「えっ、サクラ!? 何を――」

「いいから早く!!」

 説明する時間すら惜しい。サクラはスタジオの裏口へ向かって走り出した。冬も近づく夜の寒気。けれど、今のサクラにはそれを感じる余裕すら無い。スタジオの隅に停めていた自分の原付バイクへ飛び乗った。

 ヘルメットを被る指が震えて、あご紐がうまく締まらない。それを力任せに引き込み、エンジンを始動させる。

(私が……私が『新しい朝を迎える勇気』なんて言ったから。あの子に包丁を握らせてしまった!)


 排気ガスを撒き散らし、原付は夜の闇へと滑り出した。街灯の光が、涙で歪む視界の中で光の帯となって流れていく。

アクセルを限界まで回し、原付の細いエンジン音が深夜の住宅街に悲鳴のように響き渡った。

(だめだよ、クロちゃん。人殺しになんて、絶対にならないで……!)

 自分の歌が、あの子の人生を終わらせる凶器に変わることだけは、何があっても阻止しなければならない。 サクラは祈るような心地で、暗い夜道をひた走った。

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