第5話 サクランボのお茶会。と…
空気を切り裂くような、凛とした、それでいてどこか聞き覚えのある声が響いた。振り返ると、そこには自転車を止めた一人のお姉さんがいた。淡い茶色に髪を染め、高校の制服を少し着崩し、勝気な瞳で父を真っ向から睨みつけている。
「……なんだ貴様は。関係ない奴は黙っていろ。これは家庭の問題だ!」
父が猛然と怒鳴り返す。母を、クロエを、佐々木さんを一瞬で威圧する恐怖の一喝だ。だが彼女は一歩も引かなかった。
「はぁ?家庭の問題なら何してもいいわけ? 泣いてる子を無理やり引きずり回して、車に押し込んで。そんなのどっからみても『誘拐』じゃん! あんたみたいな立派そうな大人が、力づくで。そんなこともわからないの?」
彼女は一歩も引かず、父に負けない声量で言い返す。
「……貴様、大人に向かって……!」
「大人だろうと子どもだろうと間違ってるもんは間違ってる! あんたが今してるのは家庭の問題で許されることじゃない。警察、呼びましょうか? それとも、ぜーんぶネットに流してあげようか!?」
彼女はスマホを掲げ、冷徹な視線で父を射抜いた。 大企業の重役である父にとってその言葉は致命的だった。騒ぎに周囲の視線が集まり始めている。この小娘以外にも動画を撮ろうとする輩が現れるかもしれない。父は屈辱に顔を歪めながら、クロエの手首を乱暴に放した。
「……!」
言葉にならない怒声をお姉さんにぶつけると、父は母と二人で車に乗り込み、猛スピードで去っていった。
クロエはその場に、へたり込む。緊張の糸が切れ、全身の震えが止まらない。そんな彼女の隣に、お姉さんが静かに膝をついた。
「……あー怖かった。大丈夫?」
彼女は優しく、クロエの背中をさすった。その手はとても温かく、白黒の世界に再び色が差すようだった。
「あ、ありがとう、ございます……」
「いいのいいの。ふふ。それよりさぁ、あなた。良いヘアピンしてるじゃない。もしかして君も…サクランボ! …でしょ?」
お姉さんは、クロエの前髪で揺れる花びらのピンを見ていたずらっぽく笑った。
こくこく、と頷くと、お姉さんは「やっぱりね!」と微笑んだ。
「あたしもね、好きなんだ。あの子の歌はいつだってあたしに勇気をくれるから」
夕日に照らされて語るお姉さんの横顔。クロエにはそれが一瞬桜色に見えた気がした。
「あの…お姉さん」
クロエが話しかけようとすると、佐々木さんが転がるようにして駆け寄ってきた。
「クロエちゃん! クロエちゃん!ごめんね、私、怖くて、動けなくて…助けてあげられなくてごめんね!」
佐々木さんはクロエに抱きつき、後悔を吐き出すように声を上げて泣いていた。クロエは驚いた。父に威圧され、恐怖を刻まれた彼女は…もう自分には近づいてこないだろうと思っていたからだ。
クロエはこみ上げる喜びを堪えられず、佐々木さんの肩をそっと抱き寄せた。
「ううん、いいんだよ。…怖がらせてごめんね。佐々木さん。一緒にいてくれただけで十分だよ」
二人の少女が抱き合う傍らで、先ほどのお姉さんが、乱れた髪を無造作にかき上げながらふっと微笑んだ。彼女はどこか清々しい空気感を纏っており、その場に漂っていた恐怖の断片を風のように吹き散らすようだった。
「よしっ。君たち、ちょっと付き合わない?せっかく出会えたサクランボの仲間だもん。お姉さんがおごってあげる」
彼女は高校の制服をひるがえし、近くの自販機に走った。手際よくボタンを操作して戻ってくると、手にはホットレモンのペットボトルが3本握られていた。受け取ると、春が訪れたように、指の中でじんわりと温かさが染みわたる。
「……あ、ありがとうございます」
「いいって。ほら、乾杯しよ。あったかいの飲むと、震えも止まるからさ」
三人は公園のベンチに並んで座った。じんわりと掌に伝わるペットボトルの熱が、凍りついていたクロエの心を外側から溶かしていく。一口飲むと、甘酸っぱい香りが鼻を抜け、お腹の中から広がる温かさが体の震えを追い出していくようだ。
「そういえばさ」
お姉さんが、自分のレモンを一口飲んでから、何気ない風を装って言った。
「朝野サクラの配信、今日も見る? 彼女、今日の夜の配信、すごい気合入ってるらしいよ。なんでも、大切な友達に勇気を届けるんだって」
クロエと佐々木さんは顔を見合わせた。
「えっ、そうなんですか? 」
「らしいよ。ネットの噂なんだけどね」
彼女は空を見上げて、おどけたように笑った。お姉さんには今日、初めて会った。少し不器用ながらも真っ直ぐな言葉の響き。クロエは、どこかでこの『温かさ』を知っているような気がした。
「私、サクラちゃんの配信を見たから、お父さんに言い返せたことがあるんです」
クロエが胸を張って言うと、お姉さんは一瞬だけ、本当に嬉しそうに目を細めた。
「へえ、そうだったんだ。サクラちゃんが聞いたら喜ぶよ、きっと」
その後、三人はすっかり意気投合し、配信の伝説的な神回の話や、サクラのちょっとドジなエピソードで笑い合った。さっきまでの地獄が嘘のように、公園には少女たちの明るい笑い声が響き渡る。
「ええ!君、あのクロさんなの!?えっえっ、最古参のサクランボじゃん!」
お姉さんが飛び上がってクロエを見下ろした。まさに驚愕といった様相だ。
それはまだ朝野サクラのリスナーが数人だった頃から常連の一人。クロ。つまりクロエはサクランボの中ではある意味伝説の一人でもあったのだ。
「あたし、もっとこう。おじさんだと思ってた…」
あっけに取られるお姉さん。えへへと誇らしげに笑い、クロエは恥ずかしそうに小さな胸を張った。
「クロエちゃん、私より全然古参だったんだ…」
佐々木さんもあんぐりと口を開けている。その様子がおかしくて、クロエも自然に笑みがこぼれた。
「じゃあ、この歌も?」
お姉さんがハミングで一つの曲を奏でる。古参リスナーならだれもが知ってるその一曲。
「あ、私。その歌大好きなんです!」
それは朝野サクラの歌の中でも特にクロエが好きな歌だった。
始まりは冬を思わせるゆったりと、静かなキラキラとした曲調で始まる。中盤に差し掛かると少しずつ加速し、終盤は春の訪れを思わせる明るい爽やかな曲調になる。桜の季節を予感させる、冬が明ける時の歌だ。
「お?いいねー。良かったら3人で歌わない?」
「うれしい!音楽室でも練習したもんねっ」
佐々木さんも笑顔がはじける。日が沈みかけた公園に、3人の暖かな歌声が響いた。こんなに楽しい時間が、もっともっと続けばいいのに。二人の横顔を見ながら、クロエは少しだけ背筋を伸ばして歌うのだった。
「……それじゃ、私はもう行くね。あなたたちも気を付けて帰るんだよ」
そう。いつまでもは続かないのだ。最後のフレーズを歌い終え、充実感に満たされているクロエ達を残し、お姉さんはヒラヒラと手を振り軽やかな足取りで夕暮れの街へ消えていった。
「私たちも帰ろうか」
もっと話していたかった。後ろ髪を引かれながらも二人は家路につく。サクラちゃんに伝えたいな。今日こんな素敵なことがあったんだよって。クロエは隣でニコニコしながら歩く佐々木さんを羨ましく思った。家に帰ったら、きっと今の雲に乗るような気分で開始の時間を待つのだろう。
どうしても、今日の配信を見たい。胸をよぎる期待と希望。しかし、同時にホットレモンが残してくれた温かさをきゅっと握りつぶすような緊張が走る。
自宅の門をくぐるとき、クロエの背中には冷たい汗が伝った。玄関を開けると、重苦しい空気が澱みのように溜まっている。リビングを通ると何本もビールの缶が転がっていた。ソファには父が座り、テレビの音を消したまま、ただ一点を見つめていた。
父の横顔は、これまでに見たことがないほど怒りに満ちていた。血管が浮き出た拳は膝の上で固く握られ、女子高生にプライドを傷つけられた屈辱が、煮えくり返るような沈黙となって部屋を支配している。
「……ただいま」
クロエが声をかけると、父の肩が微かに震えた。怒鳴り散らす体力すら奪われたかのような、あるいは自分の怒りに飲み込まれているかのような、異常なまでの沈黙。父はクロエを一度も直視せず、そこに誰も存在しないかのように振る舞う。しかし、父の放つ異常なまでの怒気が今にもクロエの小さい体を包みこんでしまいそうだ。
クロエはそれ以上の言葉をかけず、自室のある二階へと階段を上がった。自分の部屋に入り、ドアを閉めると、ようやく肺に空気が入った。一階からは何も聞こえてこない。母はどうしているのだろう。父が放つ刺すような静寂の中、ただ過ぎ去るのを待って怯えているのだろうか。
クロエはベッドに腰を下ろし、ランドセルからタブレットを取り出した。画面をタップし、『朝野サクラ』のチャンネルを開く。
大丈夫。今日もバレない。楽観的というにもあまりにも無謀なそれは、もっとも残酷な形で訪れた…終わりの始まりだった。
自室のベッドの上、毛布をかぶったクロエは息を潜めるようにして、タブレットの画面を見つめていた。画面の中では、最推しのVtuber・朝野サクラが、いつものように明るい声でリスナーに語りかけている。
「こんさくらー! 今日もみんなと一緒にお花見騒ぎ!陽気にのんきに楽しもー!」
クロエはしまった、と思った。授業で使った時のまま、音量調整を戻していなかったのだ。
――ガタァッ!
扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで蹴り開けられる。そこに立っていたのは、怒りで顔をどす黒く歪ませた父親だった。酒の臭いと、制御不能な暴力の気配を撒き散らしながら、父は無言で部屋へ踏み込んでくる。
「……あ、お父さ――」
クロエが声を出すよりも早く、父親の大きな手が、勉強机に飾られていた朝野サクラの小さなアクリルスタンドを薙ぎ払った。乾いた音を立てて散らばるそれを、父親が乱暴に踏みつける。次にクロエの頭に手を伸ばすと、サクラの象徴である花びらのヘアピンをむしり取ると、力づくで捻じ曲げた。
「やめて! お父さん! やめて!!」
クロエの悲鳴は無視された。父親は狂ったように、壁に貼られた雑誌の切り抜きを剥ぎ取り、大切に並べられていたCDのケースを次々と踏み潰していく。バキッ、バキッという、希望が壊れる音が部屋に響き渡る。毎晩一緒に寝ていた朝野サクラのぬいぐるみはその太い指によって無残に引き裂かれ、中の綿が雪のように虚しく舞った。
「お願い……壊さないで!お父さん!」
クロエは床に這いつくばり、父親の足にしがみついた。しかし、父は言葉も発さず、娘を一瞥することもなく乱暴に振り払った。クロエが誕生日に買ってもらった、何度も読み返していたブックレットも目の前でゴミのように引き裂かれた。
嵐のような破壊のあと、部屋にはかつて宝物だったものの残骸だけが散らばっていた。 肩で息をする父親は、なぜかクロエが握りしめていたタブレットだけには手を触れなかった。ただ、絶望に震える娘を一瞥し、忌々しげに言い放って部屋を去った。
「それは全部お前のゴミだ。お前が片付けておけ!」
静寂が戻った部屋。散乱する本の破片、引き裂かれたぬいぐるみ、踏みにじられたサクラの笑顔。
クロエは、荒れ果てた戦場のような部屋の真ん中で、一人取り残された。
震える手でタブレットを見る。画面の中では、何も知らないサクラが、まだ楽しそうに笑っている。
「……あ、あぁ……っ」
壊されなかったタブレット。それは情けなどではなかった。もちろん、学校の備品だからなんて理由でもない。この端末越しに、どれほど眩しい世界を見たとしても、現実の自分は『何の自由もない、何も持たない牢獄にいる』のだと突きつけるための、もっとも残酷な装置だった。
サクラの声が響けば響くほど、足元に広がる無残な残骸が、クロエの心を切り裂いていく。もはや、元気で明るいサクラの歌声も、彼女を救うことはできなかった。
クロエの瞳から光が消える。絶望の涙が、粉々になったサクラの絵の上に、静かに滴り落ちた。
どれほどそうしていたのかもわからない。気が付くと配信はとっくに終わっていた。お前のゴミだ。頭の中で父の怒声が波のように繰り返し、すでに砕けたクロエの心を何度も襲った。クロエはふらふらと立ち上がり、机の隅に置いてあるゴミ箱を手に取った。
朝が来ても、絶望が消えることはない。 半分にも満たないゴミ袋を収集所に持って行った後は、学校に行かなければならない。もし無断欠席をしたり、テストの点が落ちたりすれば、またあの父親の「教育」という名の暴力が始まる。母親は、そんな光景を見てもただ震えて視線を逸らすだけだ。誰も助けてはくれない。
クロエは、昨日着ていた服のまま、しわくちゃな状態でランドセルを背負った。鏡を見る気力もなく、幽霊のような足取りで家を出る。
校門をくぐると、遠くから佐々木さんの明るい声が聞こえてきた。 「――でね、その時のお姉さんが本当に楽しくて!」 昨日のホットレモンパーティの事をクラスメイトに語っている。佐々木さんの世界は、まだ昨日の温かい興奮の中にあった。
「あ、クロエちゃん! おはよう!」
クロエに気づいた佐々木さんが、昨日と同じ、希望に満ちた瞳で駆け寄ってくる。しかし、近づいてきた彼女の足が、ピタリと止まった。
「……おはよう、佐々木さん」
クロエの声は、感情の起伏がまったくない、泥のように重く冷たいものだった。 生気のない顔、乱れたままの服、そして何より、取り戻したはずの光が完全に消え失せ、底なしの虚無に染まった瞳。
昨日、あんなに一緒に笑い、一緒に夢を語り合ったはずの彼女の異様すぎる姿。 昨日、彼女を家に帰った後に何が起きたのか。今日語り合おうと思っていた配信の時間、彼女の部屋で、どんな地獄が繰り広げられたのか。
「クロエ、ちゃん……?」
佐々木さんは、次にかけようとした言葉を飲み込んだ。輝いていた彼女の瞳から、急速に色が引いていく。 触れれば崩れてしまいそうなクロエの絶望を前に、佐々木さんはただ、震える唇を噛み締めて立ち尽くすことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます