第4話 白黒の世界に差し込む光
サクラの言葉を胸に、クロエは少しずつ「自分」を取り戻そうとしていた。しかし、彼女の変化は、完璧な支配を望む父にとっては「反抗期」の始まりに過ぎなかった
数日後、返却されるはずだったスマホは戻ってこなかった。それどころか、夕食の席で父が叩きつけたのは、市内で最もスパルタで知られる進学塾の入塾申込書だった。
「来月からここへ通え。週五日だ。学校が終わったら直行しろ。お前の人生に、あのくだらない動画を見る隙間など一秒も作らせん」
父の言葉は絶対だった。母は箸を持ったまま固まり、助けを求めるクロエの視線を避けるように目を伏せた。
「……嫌」
自分でも驚くほど小さな、けれどはっきりとした声がクロエの口から漏れた。食卓の空気が凍りつく。父がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、信じられないものを見るような侮蔑の色が浮かんでいる。
「今、何と言った?」
「行きたくない。私……自分の好きなことをする時間が欲しい」
サクラの言った通り、心の中で背筋を伸ばした。サクラに貰った勇気で強くなれた気がしたのだ。けれど、現実はその小さな勇気には応えてくれなかった。
「黙れ!」
父がテーブルを叩く音が家中に響き渡った。食器が踊り、汁物が畳にこぼれる。
「お前のような出来損ないに、選択権があると思っているのか! 私がどれだけお前に投資してきたと思っている! 恩知らずが!」
父はクロエの腕を掴み、無理やり自室へ引きずっていこうとした。
「お父さん、やめて…そんな、乱暴な…」
おどおどと母が割って入ったが、父はその肩を激しく突き飛ばした。
「お前は黙っていろ! そもそもお前が甘やかしたせいだろう!」
あっけなく言葉を失う母と、父の罵倒。クロエは自分の部屋に押し込められ、扉が割れるほどに力強く閉められた。暗い部屋の中で、クロエは膝をついた。
(どうして……どうして分かってくれないの……)
自分の部屋という仮初の安全地帯が、音を立てて壊れていくのが分かった。父の理想という名の暴力と、それに抗えない母の無力。サクラの配信が見たい。サクランボのみんなと笑いたい。見つかったらと思うとタブレットをつける事も出来ない。暗闇の中で、クロエはまた一人になった。
現実の世界は、あまりに冷たくて痛い。父の怒声も、母の泣き声も、すべてがクロエの細い肩にのしかかる。逃げたい。でも、どこへ?
翌朝、学校へ向かう足取りは鉛のように重かった。 腫れた目をして登校したクロエに、追い打ちをかけるような出来事が起こる。教室に入ると、数人の女子生徒がクロエの机を囲み、昨日図書室に置き忘れてしまったファンアートを眺めていた。
「うわ、これ。朝野サクラじゃん。……常盤さん、こういうの見んだ」
「意外っていうか……ちょっとオタクっぽくて引くかも」
クスクスという忍び笑い。クロエは心臓を握りつぶされるような思いで、自分の机に駆け寄った。(……返して)言葉にならず、顔をゆがませながら手を伸ばす。けれど、彼女たちは楽しそうにノートを高く掲げた。
その時だった。
「――それ、すごく上手だね」
横から割り込んできたのは、昨日図書室でクロエに声をかけた佐々木さんだった。周囲の冷ややかな空気など気にする様子もなく、彼女はクロエの描いたサクラのイラストをじっと見つめていた。
「この表情、サクラちゃんがコラボ配信の時に泣いた時のやつでしょ? 線が丁寧で、愛を感じるな」
凍りついていた空気が、わずかに揺れた。周囲の女子たちが「え、佐々木さんも知ってるの?」と戸惑い、興味を失ったように離れていく。
佐々木さんはノートをクロエに返すと、周囲に聞こえないような小声でささやいた。
「……そのヘアピン、前から気になっててさ。実は私も、サクランボなんだよ。昨日、図書室でサクラちゃんのページ見てたからやっぱりって思って」
クロエは目を見開いた。目の前に、自分と同じ「好き」を共有する人がいる。 けれど、クロエは恐怖で言葉が出てこない。かつて友達を父に怒鳴り散らされた記憶が、喉を塞いでしまう。
「これ。サクラちゃんの新曲、練習してるんだよね?」
佐々木さんが指さしたのは、ノートの端に書き殴られた歌詞の断片だった。現実があまりに辛くて、サクラの歌を口ずさむことでしか自分を保てなかった証拠。
「今度、放課後の音楽室……使われてない第二音楽室に、来てみない? 私、あそこでこっそりサクラちゃんの歌、練習してるんだ。一人だと寂しいから」
クロエは戸惑い、俯いたまま小さく頷くのが精いっぱいだった。学校ですら逃げ場を失いかけていたクロエに、画面の外から、初めて「サクランボ」の手が差し伸べられた瞬間だった。
にっ、と人懐こい笑顔で、佐々木さんは席に戻っていった。
(…どうしよう。)その日の放課後、クロエは迷っていた。早く帰らなければ、父に何を言われるかわからない。けれど、今の家には、サクラの配信を見るための手段も、安心できる場所もない。
気づけばクロエの足は、校舎の隅にある第二音楽室へと向かっていた
第二音楽室は、放課後の校舎の端でひっそりと来訪者を待ってるようだった。クロエが恐る恐る重い扉を引くと、埃っぽい空気の中に、かすかなメロディが漂っていた。
「……あ、本当に来てくれたんだ」
部屋の隅、古いアップライトピアノの前に佐々木さんが座っていた。彼女はスマホで朝野サクラのインスト(歌なし)音源を流している。
「サクラちゃんの歌ってさ、現実の嫌なことに立ち向かう勇気をくれる歌詞が多くない? 私はいつもここで、勝手にサクラちゃんごっこしてるんだ。えへへっ」
佐々木さんは茶目っ気たっぷりに笑って、隣のスペースを空けた。クロエはまだ緊張で指先が震えていた。家では父の怒声が響き、学校では無視される。そんな自分に、こんな穏やかな時間が許されるのだろうか。
「……私、歌下手だから」
「いいんだよそんなの。サクラちゃんだって、最初は音痴だってイジられてたじゃん?だけどさ。サクラちゃんの歌。心に届くでしょ?」
佐々木さんが再生ボタンを押す。流れてきたのは、サクラが配信の最後にいつも歌う、あの優しいバラードだった。
最初は、声にならなかった。けれど、横で佐々木さんが楽しそうにリズムを取るのを見て、クロエはゆっくりと口を開いた。
「……さくら、舞う……空の下……拾い上げた……花びら」
掠れた、小さな声。 けれど、サクラが配信で言っていた『好きなものを「好き」って言う時だけは、ちょっとだけ背筋を伸ばしてみて』という言葉を思い出す。 クロエは肺いっぱいに空気を吸い込み、少しだけ声を大きくした。
――ひとりじゃないよ。
歌詞と自分の境遇が重なり、胸の奥が熱くなる。隣で佐々木さんがハモってくる。二人の歌声が、誰もいない音楽室に響き渡った。
歌い終えたあと、沈黙が流れた。それは父に威圧された家庭の沈黙とは違う、心が凛と引き締まるようなすがすがしい沈黙。
「……ねえ、常盤さん。……ううん。クロエちゃん」 佐々木さんがクロエの目を見て言った。「私たち、学校でもサクランボだね」
学校でも、サクランボ。その響きに、鼻の奥がツンと染みたようになり、クロエの目から涙が溢れ出した。画面の中のコメント欄にしかいなかった仲間。それが今、目の前にいるのだ。
スマホを没収され、父に否定され、学校でも冷笑され。白黒だったクロエの世界。そこにサクラが佐々木さんを連れてきてくれた。クロエに、辛い現実に立ち向かう小さな勇気を再び与えてくれた。
「……うん。私たち、サクランボだね」
涙を拭いながらそう言うクロエの笑顔が、ほんのり桜色に染まっていた。
それからの音楽室での秘密の練習は、クロエにとって唯一の居心地のいい時間だった。佐々木さんとまた会える学校は、以前よりも胸がときめく場所に感じた。重く冷たい家の時間も、家を出る瞬間には輝ける一日に感じた。しかし、その小さな幸福すら、神様はクロエに許してはくれなかった。
ある日、クロエはこれまで以上に佐々木さんと楽しい時間を過ごした。浮かれていたといえば否定はできない。だから、つい口を滑らせてしまった。
「お母さん、私…学校に友達ができたの。サクラちゃんの歌を一緒に歌える、大切な友達。放課後にね、いつも一緒に練習してるの」
お母さんに聞かせてあげたい。そんなクロエのささやかな望みに母は一瞬、顔をほころばせた。けれど、その瞳にはすぐに怯えが混ざる。彼女にとっての平穏とは、娘の幸せではなく、夫である父を怒らせないことなのだ。
数日後の放課後。業者による校内清掃の為に音楽室が使えなかった。だから、クロエは佐々木さんをあのwifiが繋がる秘密の公園に誘った。佐々木さんのスマホから流れるサクラの曲に合わせて、二人は笑いながら声を重ねる。
「今の良かったよ! 高音も出るようになってきたね。サクラちゃんっぽい歌い方になってきてるし」
「本当? うれしいな。もう一回やろ? もっと頑張りたく…て……」
その時、公園の入り口に黒い影が差した。それを認め、クロエの体が、本能的に凍りつく。
「クロエちゃん…?」
笑顔が消え、カチカチと歯を鳴らすクロエの視線の先に立っていたのは、憤怒の形相を浮かべた父と、それに寄り添う母の姿だった。
「今日の放課後は閉鎖だそうだな…なのに遅くまで帰ってこないと思っていたら…こんな場所でサボっていたのか!」
父の怒号が公園に響き渡る。クロエは震えながら母を見たが、母は視線を逸らし、小さく呟いた。
「ごめんなさい、クロエ…お父さんに隠し事はできないわ…」
絶望がクロエを襲う。母は自分を守ってはくれず、威圧的な父にあっさりと娘を売り渡したのだ。父が太い腕を振り上げ、クロエの襟元を掴もうとした。
「帰って性根を叩き直してやる! 二度とこんな出来損ないと付き合うな!」
「あ、や、やめてくださいください。クロエちゃんを離し……」
佐々木さんは震える声でそう言いかけた。しかし、父の怒号はそのか細い勇気を無残に粉砕した。
「黙れッ! ガキが大人に口を出すな!」
重役で人を支配することに慣れた父の威圧感は、まだ12歳の佐々木さんが耐えられるものではなかった。佐々木さんは言葉を失い、金縛りにあったようにその場に立ち尽くした。彼女の瞳には、かつてクロエが抱えていたものと同じ、底なしの恐怖が伝染していた。
「佐々木、さん……」
クロエがすがるような声を出すが、佐々木さんは顔を青ざめさせ、目に涙を浮かべながらこちらを見る事しかできない。クロエを白黒の世界から連れ出してくれた佐々木さんも、あの父の前ではただの子どもに過ぎなかった。
「行くぞ、クロエ。二度とこんな奴と関わるな」
父の太い指が、クロエの細い手首を骨が軋むほどの力で掴み上げた。無理やり引きずられ、無駄な抵抗をあざ笑うかのように靴の後がラインを引いた。
「い、いや、離して……! お父さん!」
「黙れと言っている!」
振り向きざまの父の瞳には、もはや娘への愛情など微塵もなかった。あるのは、歪んだ正義感と躾に黒い炎を燃やす憤怒の感情だけだった。隣を歩く母親も、クロエの方を見ない。それが、これ以上父を怒らせない唯一の手段だと確信しているように。
クロエは引きずられながら、遠ざかっていく佐々木さんを見た。佐々木さんは涙を流しながら口に手をあて、もう一つの手をクロエに向かって伸ばしている。だがそのすくんだ足が動き出すことは無い。
(……ごめんね、佐々木さん。私のせいで、あんなに怖い思いをさせて)
クロエは心の中で、自分を助けようとしてくれた唯一の友達に謝罪した。それと同時に、色鮮やかだった世界が再び白黒の世界に戻るのを感じた。
サクラが言っていた『何度だって諦めない気持ち』も、背筋を伸ばす『小さな勇気』も、佐々木さんと育てた『自信』も。抗えない暴力の前では、あまりに無力だった。
「車に乗れ。お前がこんな出来損ないになったのは、たるんだ根性とくだらん友達のせいだ」
クロエが絶望に瞳を濁らせ、車に押し込められようとした、その時だった。
「ちょっとあんた!さっきから 何してんのよ! 誘拐する気!?」
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