第2話 食卓の不協和音
父にとって、家庭は自分の理想を形にするための道具に過ぎなかった。彼にとって娘のクロエは、一流の成績を収め、非の打ち所がない振る舞いをする『父の作品』であるべきだった。そこにクロエ自身の感情や、ましてや『Vtuber』などという理解不能な趣味が入り込む余地はない。
「……またその顔か」
翌朝の食卓。トーストを口に運ぶクロエを、父が鋭い眼光で射抜いた。クロエは反射的に肩をすくめ、視線を皿の端に落とす。
「お父さん、クロエも昨日は遅くまで予習をしていたみたいで……」
母が助け舟を出そうとするが、父の一瞥だけで言葉を飲み込んだ。母はいつもそうだ。父が声を荒らげれば、それ以上何も言えなくなる。
「昨夜、部屋から妙な声が聞こえたぞ。あんなふざけた奇声を出して騒ぐ動画、時間の無駄だ。あんなものを見ているから、お前はいつまで経っても社交性が身につかないんだ」
(違う。サクラちゃんは、ふざけてるんじゃない……)
喉まで出かかった言葉を、クロエは飲み込んだ。反論すれば、事態が悪化することを経験で知っているからだ。
クロエが人見知りになったのは、生まれつきではない。むしろ小さい頃は友達も多く、その社交性を持っていたのだ。
小学校の低学年の頃。一度だけ、クラスの友達を家に招いたことがあった。二人はクロエの部屋で、当時流行っていたアニメの話で盛り上がっていた。その時、突然ドアを開けて入ってきた父は、騒がしいと激昂したのだ。
『そんなくだらない話をするために学校へ行かせているんじゃない! 帰れ! 二度と娘を惑わすな!』
それ以前までは人並みに優しい父親だった。クロエは知らないが、当時の父は在宅で仕事を続けながら会社の責任者を任され、その重圧に強いストレスを抱えていたのだ。
泣きながら飛び出していった友達の顔を、クロエは今でも忘れられない。翌日、学校へ行くと、その子はクロエを避けるようになっていた。噂は広まり、「クロエちゃんの家に行くと怒られる」「クロエちゃんのお父さんは怖い」と、誰も彼女の輪に入ろうとしなくなった。父は、クロエの周りの人間関係を『不要な雑音』として排除してきたのだ。
「いいか、クロエ。お前のためを思って言っているんだ。今のうちから無駄な時間を削り、価値のある人間とだけ付き合え。……分かったか」
「……はい」
蚊の鳴くような声で答える。父の言う『価値のある人間』がどこにいるのか、クロエには分からない。学校の誰もが、自分との関りを避けたがっているのに。
夕方。学校からの帰り道、クロエは公園のベンチでスマホを開いた。家ではもう、安心して配信を見ることもできない。近所の施設のフリーwifiが繋がる、クロエにとって秘密の場所だ。
通知センターには、朝野サクラのポストが届いていた。『今日はね、ちょっと元気がないみんなのために、サクラ特製のお守りを作ったよ! 画面越しに、届けー!』
アップされたのは、不器用ながらも一生懸命に描かれたお守りのイラストだった。
それを見た瞬間、クロエの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。画面の中のサクラは、父が言うような「無駄なもの」なんかじゃない。誰も自分の味方がいないこの世界で、唯一自分を全肯定してくれる、たった一人の友達だった。
父の手は、着実にクロエの唯一の逃げ場所へと伸びようとしていた。
その日の夜、父が接待で遅くなるという情報を得たクロエは、息を潜めるようにして配信を開いた。画面の中では、朝野サクラが珍しく真剣な表情で、高難易度の協力プレイゲームに挑んでいた。
サクラの役割は、仲間を援護するサポート役。しかし、彼女の操作は相変わらずおぼつかない。 『あわわ、ごめんね! また回復外しちゃった……!』サクラが焦るたびに、共に戦う他の配信者たちのキャラクターがダメージを受けていく。
コメント欄には、愛のあるイジりだけでなく、時折「もっと練習してこいよ」「足引っ張りすぎ」といった厳しい言葉も混ざり始めていた。サクラは明らかに落ち込んでいる様子だったが、それでもコントローラーを離そうとはしなかった。
そして、ゲームはクライマックスを迎える。ボスの強力な一撃が仲間に向かって放たれた瞬間だった。サクラが操作するキャラクターは、自分の体力が残りわずかであるにもかかわらず、仲間の前に躍り出た。
『死なせない……っ! 私は下手だけど、でも、友達を見捨てて逃げるのはもっと嫌なんだよ!』
画面の中でサクラのキャラクターが盾となり、光の中に消えていく。その犠牲のおかげで、仲間たちはボスを倒すことに成功した。勝利のファンファーレが鳴り響く中、サクラはマイク越しに、ぐずぐずと鼻をすする音を響かせた。
『……勝ててよかった。みんな、ごめんね。私、どんくさくて、いっつも足引っ張って……。でも、今日だけは、カッコいいところ見せたかったんだ……っ』
サクラは泣きながら笑っていた。その声は震えていて、決して「強い勇者」のものではなかった。けれど、その姿は、父に怯えて沈黙を守り続けるクロエの目には、どんな魔法使いよりも勇敢に映った。
(いいな……。助けてもらえる友達は、いいな……)
クロエは、画面の中の「サクラに守られた仲間」に自分を重ねた。自分も、こんなふうに誰かに守られたかった。誰かに「見捨てない」と言ってほしかった。クロエは気づけば、夢中でスマホのキーボードを叩いていた。いつもなら「おつさくら」と打つだけの彼女が、初めて、血を流すような本音を綴ろうとしていた。
『サクラちゃん、助けて。私も、サクラちゃんに……』
その時だった。
「――まだ、こんなものを見ているのか!!」
雷鳴のような怒声と共に、部屋のドアが激しく蹴り開けられた。驚きで肩が跳ね上がる。振り返る間もなかった。
――衝撃。
熱い痛みが左頬を走り、クロエの体はベッドの上に弾け飛んだ。視界が火花を散らしたように白く染まり、耳の奥でキーンという高い音が鳴り響く。
「何度言えばわかるんだ! 誰の金で生活し、誰のおかげで勉強できていると思っている!」
仁王立ちする父の顔は、怒りで赤黒く変色していた。足元に転がったスマホからは、まだサクラの鼻をすする声が小さく漏れている。父はそれを無造作に踏みつけると、クロエの髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
「返事をしろ! こんなゴミみたいな動画で、お前の人生をドブに捨てるつもりか!」
「……っ……」
声が出ない。頬の痛みよりも、書きかけのメッセージを消され、心の拠り所を土足で踏みにじられた絶望が、クロエの喉を締め付ける。奥の廊下で、母がガタガタと震えながら、止めることもできずに口を押さえて立っているのが見えた。
父はクロエのスマホをひったくると、そのまま部屋を出て行った。
「一週間没収だ。その間に、自分がどれだけ愚かなことをしたか、頭を冷やせ」
バタン、とドアが閉まり、静寂が戻る。暗闇の中、クロエは腫れ上がった頬を抱えて丸まった。
助けて、サクラちゃん。声にならない悲鳴が、冷え切った部屋に虚しく響いていた。
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