クロエとサクラとサクランボ
@Ellenasama
第1話 放課後の逃げ場所
教室の時計が午後三時を指すと同時に、クロエは机の脇にかけたランドセルをひったくるように掴んだ。「さよなら」の挨拶が終わるか終わらないかのうちに、彼女は誰とも目を合わせず、教室の引き戸を滑り出る。
「ねえ、今日塾だっけ?」 「ううん、駅前の……」
背後でクラスメイトたちの楽しげな声が弾ける。その輪の中に、クロエの居場所はない。彼女にとって学校という場所は、できるだけ気配を消し、誰の記憶にも残らないようにやり過ごすべき戦場だった。
俯きがちに歩くクロエの視界に入るのは、履き古した上履きと、ワックスの剥げかけた廊下の床だけだ。
家に帰っても、そこには別の緊張が待っている。 玄関の扉を開けると、ツンとした芳香剤の香りと、重苦しい沈黙が迎えてくれた。奥の書斎からは、父が仕事をしているであろうタイピングの音が、まるで銃声のように規則正しく響いている。
「おかえり、クロエ」
キッチンから出てきた母の声は、いつもどこか震えている。父の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払って生きている人の声だ。
「……ただいま」
クロエはそれだけ答えると、吸い込まれるように二階の自室へ逃げ込んだ。
ランドセルに書かれた『6年4組。常盤クロエ』。お父さんがお母さんと交際するきっかけになったプレゼントが名前の由来らしいが、今の両親を見ているとそんな胸がときめく過去があったことなんて到底信じられなかった。
ランドセルをベッドに放り、鍵をかける。パタン、という静かな扉の閉じる音が、この世界で唯一の安全地帯を確保した合図だった。
ベッドに倒れ込み、母の古いスマホを取り出す。指先が迷わずタップしたのは、動画配信アプリのアイコンだ。
「あ、やってる……!」
画面が明るく光り、耳に飛び込んできたのは、鈴を転がすような、明るく快活な女の子の声。
『こんさくらー! 今日もみんなと一緒にお花見騒ぎ!陽気にのんきに楽しもー!』
画面の中では、桜模様の着物をまとった3Dモデルの少女、『朝野サクラ』が元気に手を振っている。
クロエの凍りついていた心が、その瞬間だけ、ふわっと解けていくのがわかった。
画面の下には、猛烈な勢いで流れるコメントの列。「待ってました!」「今日も可愛い!」「サクランボ集合ー!」という言葉が、まるで温かい毛布のようにクロエを包み込む。
クロエは小さく息を吐き、キーボードを呼び出した。現実の世界では、クラスメイトに「おはよう」の一言も言えない。けれど、この青白い光の中だけは別だ。朝野サクラと、そのリスナーである通称サクランボ。そのうちの一粒になっている間だけは、クロエの心の中が春に満たされるのだ。
『こんさくら! 今日も楽しみにしてたよ』
勇気を出して打ち込んだ文字が、激しい流れの中に吸い込まれていく。たとえ本人に読まれなくてもいい。この瞬間、自分はこの温かい場所の一部になれている。
階下から、父が母を叱責するような低い声が聞こえてきた。クロエは慌ててイヤホンを耳の奥に押し込む。ボリュームを、最大まで上げた。
大好きなサクラの歌声が、耳の中でこだまする。現実の嫌な音をすべてかき消してくれる、この桜色の魔法だけが、クロエの胸を満たす空気だった。
耳元で鳴り響くアップテンポなイントロ。朝野サクラのオリジナル曲『いま来たサクラ!』が流れると、クロエの部屋は一瞬にしてライブ会場へと変わる。
『みんなー! 準備はいい? 今日は新作の死にゲー、全クリするまで終われません配信だよー!』
サクラが画面の中でぴょんぴょんと跳ねる。彼女のトレードマークである大きな花びらのヘアピンと、腰まで届く桜色の長い髪がふわふわと揺れた。それと同じヘアピンをクロエはいつも身につけている。クロエにとって、大切な推しのグッズの一つ。プラスチックの感触を確かめながら、食い入るように配信を見つめた。
朝野サクラは、決して「完璧な美少女」ではない。配信が始まって十分。彼女はすでにゲーム内の最初のザコ敵に倒され、「うぁ、いや、今のはコントローラーが滑っただけだし!」と頬を膨らませている。そのドジっぷりに、コメント欄は爆速で流れる。「草」 「さす(が)サクラ、もう桜散っちゃったww」「コントローラーのせいにすんなしww」
画面を流れる『サクランボ』たちのツッコミ。クロエも思わず口角が上がる。サクラの魅力は、その「不器用さ」にもある。彼女はゲームが下手で、漢字を読み間違えるし、料理配信をすれば必ず何かを入れ忘れる。けれど、彼女は絶対に諦めない。何度倒されても、「もう一回!」と叫んで立ち上がる。
『よし、落ちてない!いや落ちた!……もういっかぁい!次は絶対いける気がするんだよ! みんなが応援してくれてるもん!』
サクラがリスナーを見つめて笑う。その幼い、けれど一生懸命な歌唱のような声を聞いていると、クロエは「自分もここにいていいんだ」という一体感に満たされる。
学校の休み時間、クロエは一人で机に伏せている。周りから見れば『暗い子』だろう。 けれど、朝野サクラの配信の中ではクロエは立派な『サクランボ』の一員だった。
「サクラちゃん、がんばって!」「大丈夫大丈夫、もう一回いってみよ!」
そんなコメントを打ち込み、他のリスナーと「いまの凄かったね!」と共感し合う。 現実のクロエは透明人間のような存在だが、コメント欄のハンドルネーム『クロ』は、確かにそこに存在し、サクラを支える力の一部になっていた。
1年ほど前。学校も家もつまらなくて、何の気なしに見始めた配信。まだ視聴者がクロエを含めて3人しかいなかった頃からも、サクラは今と同じように全力で、元気いっぱいに配信をしていた。今ではすっかり視聴者も増え、個人勢から企業にも所属した人気Vtuberの一人になっているけれど、今いる場所から動けないでいる自分の代わりに伸びていくサクラ。まるで凍える吹雪の中で見つけた、陽だまりのような姿だった。
『あああああーん!また桜が散っちゃったーー!』
配信画面から、ゲームオーバーになった時の定番のセリフが飛び出す。クロエはにやっと笑い、滝のように流れるそれと同じワードを送る。
「でもまた咲く」
そのたびに立ち上がるサクラの姿は、欠けてこぼれていくクロエの心を埋めるようだった。
配信の終盤、サクラがマイクを握り直した。
『今日は最後に一曲歌うね。……みんな、今日も一日、本当にお疲れ様。学校や仕事、大変なこともたくさんあると思うけど、サクラはいつだってここで歌ってるからね』
始まったのはバラード。幼さを残した少し鼻にかかる独特の声が、クロエの胸の奥を震わせる。サクラの歌は、プロのような完璧なテクニックはない。けれど、一音一音が一生懸命で、まるで迷子になった子供の手を引いてくれるような優しさがあった。
(……サクラちゃんも、頑張ってるんだ)
クロエは祈るようにスマホを握りしめた。画面の中の少女は、いざという時には友達を助け、泥臭くても最後まで走り抜ける。クロエにとってサクラは、単なるVtuberではなく、なりたくてもなれない「理想の自分」そのものだった。
ライブが終わり、配信画面が『おつさくら!』というリスナーの文字で埋め尽くされる。 クロエが最後の一文字を打ち込もうとしたその時。
バタン! と激しくドアを叩く音がした。
「クロエ! いつまでだらけているんだ。テスト前だろう!」
父の怒鳴り声。現実に引き戻されたクロエの手が、恐怖で小さく震えた。
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