秋名最速伝説 イニシャルG
五平
第1話:50ccの咆哮
ガレージの最奥、光の届かない場所に、その「死体」は横たわっていた。
タクミが古い毛布を剥ぎ取ると、舞い上がった埃が、斜めから差し込む西日にキラキラと踊った。現れたのは、プラスチックのカウルに覆われた小さな鉄の塊。
ヤマハ・チャンプRS。
かつて「50cc最速」の名を欲しいままにし、そして時代に置き去りにされた、昭和の狂気の結晶だ。
タクミの指先が、退色した赤いロゴをなぞる。
カウルは冷たく、どこか獣の皮膚のような質感を湛えていた。現代のスクーターのような優しさは微塵もない。ただ「速く、鋭く、爆ぜる」ことだけを目的として削り出された、純粋な戦闘単位だ。
「……目覚めろ」
ガソリンの腐敗臭を肺に吸い込み、タクミはキックペダルに全体重を乗せた。
一発目、スカスカという虚しい音だけが、コンクリートの壁に跳ね返る。
二発目、ピストンがシリンダー内の僅かな油膜を噛む、重い手応え。
三発目――タクミは、右足の裏に「点」の感覚を集中させた。
――パパパパァァァンッ!!
ガレージの空気が、高圧電流を流したかのように一変した。
脳髄を直接針で突くような、乾いた、それでいて圧倒的な音圧。
マフラーから吐き出された青白い煙が、一瞬にして視界を遮る。アイドリングですら、この車体は「静止」を拒絶し、ハンドルを通じてタクミの手首を、肩を、そして脳震盪に似た微細な振動で揺さぶり続ける。
(こいつ……狂ってやがる)
タクミはヘルメットを被り、夜の帳が下り始めた秋名へと滑り出した。
国道を抜けると、空気の密度が一段と低くなる。
標高が上がるにつれ、2ストロークエンジンは逆に活力を増していくようだった。
スロットルを回す。
加速に「助走」など存在しない。
回転計がパワーバンドに差し掛かった瞬間、景色が後ろへ弾け飛んだ。
フロントタイヤが路面から解放され、虚空を蹴る。
車重50キロ台の機体に、7.5馬力の暴力。
それは「乗っている」のではなく、弾丸の先端に「しがみついている」という感覚に近い。10インチの小さなタイヤは、アスファルトの僅かな亀裂さえも巨大な衝撃としてタクミに伝えてくる。
その時だった。
背後の闇が、暴力的なまでの白色光に塗りつぶされた。
ドォォォォ――ッ!!
重厚な、そして物理的な圧力を伴うマルチエンジンの咆哮。
バックミラーに映ったのは、獲物を定める猛獣のようなナナハンのフロントマスクだった。
排気量にして15倍。
メーカーが数百万のコストを投じて作り上げた現代の傑作が、場違いな「原付」を路外へ追い遣ろうと、その巨大な質量で迫ってくる。
(舐めるな……っ!)
タクミは唇を噛み、ブレーキレバーを拒絶した。
むしろ、さらに奥のスロットルへと指先を沈め、混合気を限界までシリンダーへ叩き込む。
秋名の下り坂。
重力と2ストロークの絶叫が混ざり合い、物語の構造が、誰も知らない「点の旋回」へと収束し始める。
この小さな、今にも壊れそうな鉄の塊が、夜の伝説を塗り替える。
それが、タクミの長い、長い夜の始まりだった。
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