第15話 役目

拍手の渦が遠い雷鳴のように体育館の床を震わせていた。客席から浴びせられる熱狂的な視線と、眩い照明の残像。そのすべてを背中で受け止めながら、緞帳がゆっくりと下りていく。幕が完全に閉じ、舞台上が薄暗い静寂に包まれた瞬間、恵比寿はその場に崩れ落ちるように膝をついた。


「……終わった。本当に、終わったんだ……」


震える声で呟き、彼女は顔を覆った。


劇は成功だった。

彼女が紡いだ言葉は、観客の心に深く突き刺さり、劇の終幕と共に大きな感銘を呼んだ。


私は照明操作盤から離れると、暗がりに慣れない足取りで彼女のもとへ駆け寄った。


「恵比寿、立てる?」


「衣……。見てた? 私、ちゃんとできてた?」


差し出した私の手を、彼女は縋るような力で握り返した。見開かれた瞳はまだ興奮の熱を帯び、目尻にはうっすらと涙の膜が張っている。


私は彼女を支えながら立ち上がらせ、熱気と埃の充満する舞台裏から、裏口を通って校舎の方へと連れ出した。クラスメイトたちはまだ片付けや談笑に夢中で、この廊下には誰の姿もない。


私たちが向かったのは、劇の準備期間中、二人だけの避難所となっていた放課後の準備室だった。


「ふぅ……。やっと息ができる」


部屋に入り、扉を閉めた瞬間、恵比寿は背負っていた重い荷物を下ろしたかのように肩の力を抜いた。

窓からは、傾きかけた秋の陽光が差し込み、机の上に積まれた小道具の山をセピア色に染めている。


彼女は衣装の白いドレスのまま、予備の椅子に腰を下ろした。舞台用のメイクは少しだけ汗で滲み、丁寧に結い上げられていた髪からは、数本の毛先がはみ出して首筋にかかっている。

その乱れた姿が完成された主演女優ではない、血の通った一人の少女としての彼女を際立たせていた。


「……すごかった。恵比寿の声、一番後ろまで届いてた」


「本当? 衣にそう言ってもらえるのが、何よりの評価だよ。私、舞台の上でね、ずっと衣のこと考えてたんだ。暗闇の中に衣がいる。私が迷ったら、衣が光で導いてくれるって」


恵比寿はそう言って、ドレスの胸元に飾られていたサテンのリボンに指をかけた。

指先が震えていて、うまく解けない。

私は黙って彼女の前に跪き、そのリボンに手を添えた。


「……手伝う」


「うん。お願い」


指先が彼女の喉元に触れる。

細い首筋から伝わってくる拍動は、まだ祭りの余韻を引きずって激しく打っていた。

リボンを解き、背中のファスナーを少しだけ下げると、彼女の白い肌が夕闇の中に浮き上がった。

そこから立ち上る、舞台の化粧品の匂いと彼女自身の甘い香りが狭い部屋の中に濃密に充満していく。


「衣……。私、今日、舞台の上で気づいたんだ」


恵比寿の声が、微かに低くなる。


「みんなの拍手は嬉しかったし、成功してホッとした。でもね、拍手が止まって、幕が下りた後に一番に探したのは、みんなの顔じゃなくて、衣の姿だったんだよ」


彼女は私の肩を掴み、自分の方へと引き寄せた。

至近距離で見つめ合う。彼女の瞳の中には、夕焼けの光と、動揺を隠せない私の顔が映っていた。


「私は、誰かのために笑う私じゃなくて、衣だけに見せる私でいたい。隠れ蓑とか、盾とか、そういう役割を全部脱ぎ捨てて……ただの『私』として、衣の隣にいたいんだ」


その言葉は、リボンと同じように、彼女を縛っていた『寿恵比寿』という呪縛を一つずつ解いていくかのようだった。私は彼女の手を握りしめ、その熱を自分の心に刻み込む。

かつて人混みを恐れ、名前の通り何かの『衣』を纏うことでしか生きられなかった私が、今、その中身にある温かな真実に手を触れている。


「……私も、同じ。恵比寿がいない世界は、もう……色のない文字だけの世界と同じ。

恵比寿が光を当ててくれるから、私は自分の名前を好きになれた」


不器用な私の告白に、恵比寿はこぼれるような笑みを浮かべた。

彼女は私の首に腕を回し、優しく抱きついてくる。

舞台を終えた後の解放感と、秋の日の終わりの寂寥感が混ざり合い、私たちの間には名付けようのない感情が溢れていた。


「ねえ、衣。リボン、解いてくれてありがとう。

これからは、私が衣を包んであげる番だね」


「……それは、私の役目」


「あはは、そうだね。じゃあ、二人でお互いを包み合おう。誰にも見えない、二人だけの衣で」


窓の外では、最後の一片の夕陽が地平線に沈もうとしていた。

祭りの後の静かな教室で、私たちは重なる呼吸の音だけを頼りに、いつまでも寄り添い続けた。


文化祭という大きな舞台は終わった。

けれど、私たちの物語は、この解けたリボンの先から、より深く、より確かなものへと繋がっていく。


名は体を表す。

私は彼女を守る衣になり、彼女は私を照らす確かな生命となる。

その誓いは、夕闇に溶けることなく、私たちの胸の中で静かに、けれど強く、輝き続けていた。


「衣、大好きだよ」


「……私も。大好き」


囁き合う声は、夜の帳に優しく吸い込まれていった。

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海老と衣 空落ち下界 @mahuyuhuyu

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