第14話 光

文化祭当日。

校内は朝から、煮え立つような興奮に包まれていた。廊下を埋め尽くす模擬店の呼び込み、体育館から漏れ聞こえるバンドの重低音。

すべてが、日常の規律を塗りつぶしていく。


私と恵比寿が所属するクラスの出し物、創作劇『青の境界』の上演時間は、午後一番。

舞台袖の薄暗い通路には、使い古された大道具や衣装の入った段ボールが所狭しと並んでいた。

隙間から差し込むわずかな照明の光が、宙に舞う細かな塵を白く照らし出している。


「衣……どうしよう。心臓が口から出そう」


隣で恵比寿が、何度も深呼吸を繰り返していた。

衣装である純白のドレスに身を包んだ彼女は、暗がりの中でも発光しているかのように美しい。

けれど、その指先はドレスの裾を強く握りしめ、白く震えていた。


劇の主演を務める彼女には、膨大なセリフと物語の鍵を握る重要な独白が託されている。

実行委員として奔走し、クラスの不和を調整し続け、ようやく辿り着いたこの場所。その重圧が、今になって彼女の細い肩にのしかかっていた。


「……大丈夫。恵比寿は、あんなに練習した」


「わかってる、わかってるんだけど。もしセリフが飛んじゃったら。もし私が台無しにしちゃったらって思うと……」


彼女の呼吸が、次第に浅くなっていく。

私は周囲を伺った。出番を待つ他のクラスメイトたちは、舞台裏の反対側で小道具の最終チェックに追われている。ここには、私と彼女の二人だけだ。

私は裏方の仕事である照明担当の軍手を脱ぎ、彼女の両手を正面から包み込んだ。


「……私を見て」


恵比寿が、怯えたような瞳を私に向ける。

私は彼女の手を、自分の胸のあたりに引き寄せた。


「……聞こえる?」


「……え?」


「私の、音」


厚い制服越しでも伝わる、一定の早い鼓動。


「恵比寿が緊張してるなら、私も同じ。

恵比寿が舞台で一人になるなら、私は暗闇から、ずっと光を当ててる。……恵比寿は一人じゃない」


彼女の瞳から、ふわりと力が抜けた。

私は彼女の右手を、自分の頬に添えさせた。

舞台用のメイクを施された彼女の指先は、ひんやりとしていて、けれど確かな生命の熱を帯びている。


「……衣」


「セリフが飛んだら、私が照明を少しだけ遅らせる。恵比寿が思い出すまで、世界を止めてあげる」


「あはは……何それ。衣、魔法使いみたい」


ようやく、彼女の唇に小さな笑みが戻った。

震えていた指先が、私の頬を優しくなぞる。


「……私、衣にいいところ見せたいんだ。ただの『隠れ蓑』じゃない、私を見てほしい」


「もう、見てる。ずっと、恵比寿だけを」


暗がりのパントマイム。

言葉よりも先に、互いの呼吸が重なり合う。

彼女は私の肩に額を預け、最期の深呼吸をした。


その瞬間の静寂は、校舎を揺らす外の喧騒さえも遠ざけるほど、深く、濃密なものだった。

ブザーの音が、開演を告げる。緞帳が上がる鈍い振動が、足の裏から伝わってきた。


「行ってくるね、衣」


「……いってらっしゃい」


彼女は背筋を伸ばし、一歩、光の溢れる舞台へと踏み出した。その瞬間、彼女の背中は『寿恵比寿』という主演女優のそれに変わる。


舞台へ向かう直前、彼女はほんの一瞬だけ首をかしげ、私の方を振り返った。

暗闇に紛れた私にだけ届く、小さなウィンク。

その茶目っ気たっぷりの仕草に、私の胸の奥が熱く疼いた。


私は照明操作盤の前に立ち、レバーに手をかける。

彼女が舞台のセンターに立った瞬間、私は渾身の力を込めて、スポットライトを放った。


白く、眩い光の柱。その中心で、恵比寿は誰よりも鮮やかに咲き誇っていた。

私の当てる光が、彼女の肌を、ドレスを、そして放たれる言葉を、より一層高く遠くへと運んでいく。


彼女が最高に輝けるように、影から世界を操る。

それが、私の選んだ新しい『衣』の役割だった。

舞台上の彼女と舞台裏の私。

二人の呼吸は、目に見えない糸で繋がれたまま、物語のクライマックスへと突き進んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る