第13話 屋上
重い鉄扉が錆びた音を立てて閉まると、校舎内の喧騒は遠い世界の出来事のように静まり返った。
屋上のコンクリートは、昼間の陽光をたっぷりと吸い込んで、足の裏から穏やかな温かさを伝えてくる。西の空から差し込むオレンジ色の光が、私たちの制服を濃密な琥珀色に染め上げていた。
私は恵比寿の手を引いたまま、フェンス沿いにある給水タンクの影に腰を下ろした。ここなら、地上からも、校舎の窓からも、私たちの姿は見えない。
彼女はふぅと深く長い息を吐き出し、私の肩にコテリと頭を預けてきた。
「……生き返る。衣の隣は、空気がおいしいね」
少しだけ甘えたような、柔らかな声。
先ほどまで体育館の裏で張り詰めていた緊張が、この静寂の中にゆっくりと溶け出していく。
私は何も答えず、ただ自分の左手を彼女の右手に重ねた。指先から伝わってくる拍動は、以前よりもずっと穏やかで、心地よいリズムを刻んでいる。
恵比寿は目を閉じ、秋の冷ややかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
金木犀の甘い香りが、風に乗って運ばれてくる。
文化祭の準備というお祭り騒ぎの中で、彼女は誰に対しても完璧な『寿恵比寿』であり続けようと奮闘していた。そのひたむきな努力を知っているのは、おそらく私だけだ。
「私ね、みんなとワイワイやるのは嫌いじゃないんだよ。でも、たまに自分の輪郭がぼやけて、どこまでが私なのか分からなくなっちゃうことがあって」
彼女は独り言のように、穏やかに語り始めた。
「そんな時、衣を見ると安心するの。衣は、私が何を言っても、何を言わなくても、変わらずにそこにいてくれるから。私の帰る場所をずっと守っててくれるみたいで」
私は彼女の髪に指を滑らせた。
まとめられていた髪を解くと、茶色の髪が夕陽を透かして、まるで絹糸のようにきらきらと輝く。
彼女が外で振りまく光は、決して偽物ではない。
けれど、その光を維持するためには、こうして影の中で羽根を休める時間が必要なのだ。
「……恵比寿がどこへ行っても、私は動かない。
ここに座ってる」
私の言葉に、恵比寿が小さく吹き出した。
「あはは、お地蔵さんみたい。でも、それがいいんだ。私がどれだけ遠くを走り回っても、振り返れば必ず衣がいる。それだけで、私は最強になれる気がするんだよ」
彼女は私の膝の上に自分の手を移動させ、指を一本ずつ絡めるようにして握り直した。手のひらから伝わる熱が、じんわりと私の心まで温めていく。
かつては他人の体温を不快なノイズだとしか思えなかった私が、今では彼女の鼓動を、何よりも安心できる音楽のように感じていた。
空の色は、鮮やかなオレンジから、紫を帯びた深い藍色へと移り変わろうとしていた。
遠くで運動部の笛の音が響き、下校を促す音楽が校内放送から流れてくる。
それでも、私たちは立ち上がろうとはしなかった。
この場所だけが、世界から切り離された二人だけの聖域のように思えたから。
「ねえ、衣。文化祭の劇、成功したらさ。打ち上げは二人だけでやろう? 豪華に、美味しいものをたくさん食べて、朝までお喋りするの」
「……朝までは、無理。眠くなる」
「もう、そこは頑張ってよ! 私、衣に話したいことが、まだ山ほどあるんだから」
彼女は私のシャツの裾を軽く引っ張り、いたずらっぽく笑った。その表情には、先ほどの資材置き場で見せた危うい影など微塵もなかった。
私の存在が、彼女の心を少しでも軽くできているのなら、こんなに嬉しいことはない。
自分の内側にある感情をこれほどまでに素直に誰かに分け与える日が来るとは想像もしていなかった。
他人を隠れ蓑として利用することしか考えていなかった私は、もうどこにもいない。
私は彼女を守りたい。彼女が笑える場所を、誰にも邪魔されないように囲っていたい。
「……約束。打ち上げ、二人でやろう」
私の答えを聞いて、恵比寿は満足げに目を細めた。
彼女は私の胸元に顔を寄せ、幸せそうに目を閉じる。私たちが纏っている『衣』は、もう拒絶のための鎧ではない。互いを温め合い、慈しむための、世界で一番柔らかな居場所になっていた。
フェンスの向こう側で、街の灯りがポツポツと灯り始める。これからまた、私たちはあの騒がしい日常の中へと戻っていかなければならない。
けれど、もう怖くはなかった。
ここでチャージした温もりが、私たちの背中をそっと押してくれるはずだ。
「……帰ろうか、衣」
「うん。お腹空いた」
「ふふ、衣ってば、たまにすごく現実的だよね。
そこが大好きなんだけど!」
立ち上がった恵比寿は、私に手を差し伸べた。
その手を取り、私はしっかりと地面を踏みしめる。
秋の夜風は少し冷たかったけれど、繋いだ手のひらは、いつまでも熱を失わなかった。
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