第12話 仮面

十月に入り、校舎内は文化祭特有の、焦燥と高揚が混じり合った独特の熱気に支配され始めた。

放課後の廊下には段ボールが積み上げられ、ペンキの匂いが鼻を突く。どこからか聞こえるダンスの練習曲が、図書室の静寂すらも薄く浸食していた。


「衣、ごめん。今日、やっぱり会議長引きそう」


教室の片隅で、恵比寿が申し訳なさそうに眉を下げた。彼女はクラスの出し物である演劇の実行委員に加え、その社交性の高さを見込まれて、舞台演出の統括という大役まで押し付けられている。


「……気にしなくていい。図書室で、本を読んでる」


「本当? あ、でも、あんまり遅くならないでね。

最近、変な下級生も多いみたいだし」


恵比寿は私の制服の襟元を整えるふりをして、指先で私の鎖骨のあたりを軽く撫でた。

クラスメイトの視線がある場所での、大胆な接触。

それは彼女なりの印なのだと、今の私にはわかる。


彼女が去った後、私は一人で図書室へ向かった。

しかし、いつも座っている窓際の特等席には、見知らぬ生徒たちのグループが陣取って賑やかに談笑している。


居場所を奪われたような感覚に陥り、私は本を借りるのも諦めて、誰もいない中庭のベンチへと足を向けた。秋の陽光は優しく、植え込みの金木犀から甘い香りが漂ってくる。

そこで一時間ほど文字の海に没頭していると、校舎の方から喧騒が漏れ聞こえてきた。


「だから! スケジュール管理が甘いって言ってるの! 恵比寿ちゃんだけに負担かけすぎじゃない?」


「そんなこと言ったって、彼女がやるって言ったんだからさ……」


低く、棘のある声。

私は本を閉じ、声のする方へ歩を進めた。

体育館の裏手、資材置き場の近くで、数人の生徒が恵比寿を取り囲んでいる。

輪の中心にいる恵比寿は、いつもの完璧な笑顔を浮かべていた。

けれど、その頰は以前よりも少し痩せ、瞳には隠しきれない疲労の色が沈んでいる。


「大丈夫だよ、みんな。私がもう少し調整すれば済む話だから。喧嘩はやめよう?」


彼女の声はどこまでも穏やかで、聞き分けがいい。

周囲の不満を吸収し、潤滑油となって場を収める『寿恵比寿』としての完璧な演技。


けれど、私には見えてしまった。

背中の後ろで固く握りしめられ、微かに震えている彼女の拳が。


私は、自分の足が勝手に動き出すのを感じた。

人見知りで、争い事が嫌いで、常に誰かの影に隠れていたいと願っていたはずの私が、無意識に人混みの中へと踏み込んでいた。


「……そこまでにして」


私の声は、思いのほか冷たく響いた。

生徒たちの視線が一斉に私に集まる。

私は彼らの視線を『衣』として跳ね除け、恵比寿の隣に立った。


「戌亥さん……」


「彼女は、実行委員の仕事だけじゃない。

クラスの準備もやってる。これ以上の負担は、効率が悪いだけ」


私は感情を削ぎ落とした声で、事務的に事実を突きつけた。周囲の生徒たちは、私の纏う拒絶のオーラに気圧されたのか、数言の言い訳を残して蜘蛛の子を散らすように去っていった。


二人きりになった体育館の裏。

恵比寿はまだ、仮面のような笑顔を貼り付けたまま固まっていた。


「……衣。今の、かっこよかったよ。助かっちゃった」


「……無理、してる」


私は彼女の頰に手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、彼女の笑顔が、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。


「……うん。もう、笑い方、忘れちゃいそうだった」


恵比寿は私の胸に顔を埋め、深く、重い吐息を漏らした。彼女の体温が制服越しに伝わってくる。

これまで私が、彼女を隠れ蓑にしてきたように、今度は私が、彼女を世間の視線から隠すための盾にならなければならない。


「……少し、休もう。屋上の鍵、私が持ってるから」


「衣……」


私は彼女の手を引き、夕暮れに染まり始めた階段を登り始めた。仮面の下にある彼女の本当の顔を守れるのは、私だけだ。


文化祭の足音は、着実に近づいている。

けれど、その嵐のような日々の中で、私はもう二度と彼女を一人にはさせないと誓った。

私の『衣』は、もう自分の身を守るためのものではない。彼女の涙を拭い、その震える肩を包み込むために、この名前はあるのだ。


屋上へ続く扉を開けると、オレンジ色の世界が広がっていた。そこで私たちは、誰の視線も届かない境界線の中で、ようやく本当の呼吸を取り戻した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る