第11話 執着
九月の声を聞いた途端、世界は急に騒がしさを取り戻した。校舎に響く喧騒、廊下を走る足音。それらすべてが、夏休みの静寂に慣れきった私の耳には、暴力的なまでの情報量として襲いかかってくる。
私はいつものように、放課後の図書室の隅で息を潜めていた。
隣には、ノートにペンを走らせる恵比寿がいる。
夏休みを経て、私たちの距離は以前よりも数センチ近くなっていた。机の下で、彼女の膝が私の足に軽く触れている。その微かな接触だけが、荒れ狂う日常の中での唯一の錨(いかり)だった。
「衣。そんなに眉間にシワ寄せないの。せっかくの美人が台無しだよ?」
恵比寿が顔を上げず、囁くように言った。
彼女は二学期が始まってから、さらに陽キャの鑑としての振る舞いに磨きをかけている。
クラスの中心で笑い、行事の実行委員を引き受け、誰にでも平等に光を振りまく。
けれど、図書室のこの席にいる時だけは、彼女の纏う光は穏やかな月明かりのように落ち着いていた。
「……うるさい。集中してるだけ」
「嘘ばっかり。さっきから一ページも進んでないじゃない」
彼女はいたずらっぽく笑い、私の手元にある文庫本を指先で弾いた。
その穏やかな空気を切り裂くように、図書室の入り口から遠慮がちな足音が近づいてくる。
「あの……失礼します。戌亥先輩、いらっしゃいますか?」
聞き慣れない、高く澄んだ声。顔を上げると、そこには見知らぬ一年生の女子生徒が立っていた。
丁寧に切り揃えられたボブカットに、期待と緊張が入り混じった瞳。彼女の手には、小さな包みが握られている。
「……私だけど」
私が短く答えると、その生徒は、頬を林檎のように赤らめた。
「一年の佐倉です! あの、夏休みの部活動の合同練習の時、先輩が落としたハンカチを拾ったんです。ずっとお返ししたくて……」
合同練習。私は図書委員の仕事で、運動部の手伝いに一度だけ駆り出されたことがあった。
その時のことだろうか。
差し出されたハンカチは、確かに私のものだった。けれど、わざわざここまで届けに来るほどのものかという疑問が喉元まで出かかる。
「……ありがとう。助かった」
「いえ! あの、もしよろしければ、これ……お礼というか、実家が和菓子屋をやってまして、試作品なんですけど」
彼女はハンカチと一緒に、丁寧にラッピングされた包みを差し出してきた。図書室の静寂の中に、異物(よそもの)の熱が混じり込む。
私はどう応じるべきか分からず、隣の恵比寿に助けを求めようとした。
いつもなら、恵比寿が「わあ、美味しそう! 衣、よかったね」と、明るくその場を収めてくれるはずだった。それが、私の知っている、私の「隠れ蓑」としての彼女の役割だ。
けれど、恵比寿は動かなかった。
彼女はペンを止めたまま、無機質な表情で一年の生徒をじっと見つめていた。
その瞳には、私が一度も見たことのないような、冷たく鋭い色が宿っている。
「……恵比寿?」
私が名前を呼ぶと、彼女はハッと我に返ったように、いつもの笑顔を貼り付けた。
「ああ、ごめん。すごいね衣、一年生にまで慕われちゃって」
彼女の言葉は、完璧な祝辞だった。
その声のトーンは低く、私の耳には警告のように響いた。恵比寿は一年の生徒に向き直ると、親しみやすさを装いながら、けれど一歩も譲らない威圧感を持って告げる。
「佐倉さんだったっけ? ありがとう。衣、人見知りだからびっくりしちゃったみたい。これ、私からもお礼言わせてね。衣の落とし物を見つけてくれて」
『私からも』という言葉に込められた、強烈な所有権の主張。一年の生徒は、恵比寿の放つ圧倒的な陽のオーラに圧倒されたのか、何度か頷くと、逃げるようにその場を去っていった。
再び訪れた静寂。
それは先ほどまでの心地よいものではなかった。
重く、湿り気を帯びた、嵐の前の凪のような沈黙。
「……恵比寿。今の、何」
「何って、何が?」
恵比寿は再びノートに向き直ったけれど、そのペン先は震えていた。彼女は私の顔を見ようとしない。
「……怒ってるの?」
「怒ってないよ。ただ……衣は、自分が思ってる以上にみんなに狙われてるんだなって思っただけ」
彼女がペンを置いた。
机の上で、彼女の指先が私の本の上に乗る。
それは優しくなぞるような動きではなく、そこに自分の印を刻み込もうとするような、執着に満ちた動きだった。
「衣を隠すための『衣』だったはずなのに。
いつの間にか、私の方が『衣』に隠れて甘えていたんだね」
彼女の呟きは、私の胸の奥を鋭く抉った。
夏休みの海で交わした約束。
「恵比寿は私のものだ」と言った私の言葉が、彼女の中で別の形に変質して、彼女を縛り始めている。
窓の外では、秋の訪れを告げる高い空が広がっていた。私たちの間に流れる均衡は、たった一人の異邦人の登場によって、音を立てて揺らぎ始めていた。
「……衣」
恵比寿がようやく私を見た。
その瞳は、泣き出しそうなほどに揺れ、縋るような光を湛えていた。
「明日も、ここで二人だけで本、読めるよね?」
私は答える代わりに、彼女の冷え切った指先を、自分の手で強く握りしめた。
隠れ蓑が必要なのは、私だけではなかったのだ。
私たちは、お互いを守るための衣でありながら、同時にその重さに首を絞められ始めている。
二学期の授業終了を告げるチャイムが、遠くで冷たく鳴り響いた。
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