第10話 潮騒

電車のドアが開いた瞬間、海を含んだ生暖かい風が車内に流れ込んできた。

終着駅のホームに降り立つと、遠くで響く潮騒の音が、街の喧騒を塗りつぶしていく。


夏休みも、残すところあと数日。

私たちは示し合わせたわけでもなく、ただ「どこか遠くへ行こう」という恵比寿の誘いに乗り、二時間ほど電車に揺られてこの海辺の町までやってきた。


「衣、見て! 青いよ、すごく青い!」


恵比寿はサンダルの音を鳴らし、駅前からのびる緩やかな坂道を駆け下りていく。

彼女のノースリーブのワンピースが風を孕んで、白い蝶のようにひらひらと舞った。


私は重い足取りでその後を追う。

強い日差しが首筋を焼き、アスファルトの熱が靴底を通して伝わってきた。

砂浜に出ると、平日のせいか人影はまばらだった。

打ち寄せる波が白い泡を立て、砂を浚っていく。


その光景を眺めていると、自分がこれまで守ってきた『戌亥衣』という殻が、波に洗われて少しずつ削り取られていくような、奇妙な開放感に包まれた。


「……恵比寿、待って」


「あはは、衣、歩くの遅いよ!」


彼女は波打ち際で立ち止まり、こちらを向いて大きく手を振った。背後に広がる水平線が、彼女の輪郭を鮮やかに縁取っている。私は砂に足を取られながら、ようやく彼女の隣に辿り着いた。


「……そんなに急がなくても、海は逃げない」


「わかってるよ。

でも、今年の夏はもうすぐ終わっちゃうでしょ?

一秒だって無駄にしたくないんだもん」


恵比寿はそう言って、履いていたサンダルを脱ぎ捨てた。裸足のまま波打ち際に足を踏み入れ、冷たい海水に声を上げる。彼女の足首を洗う透明な水が、太陽の光を反射して宝石のようにきらめいた。


私はその様子を、少し離れた乾いた砂の上で見守る。彼女という光に当てられすぎると、時折、自分が透明になって消えてしまいそうな錯覚に陥る。


隠れ蓑として彼女を使っていたはずなのに、気づけば私の方が彼女の存在なしでは、自分の色を定義できなくなっていた。


「衣もおいでよ!」


恵比寿が手を差し伸べてくる。

私は躊躇い、自分の足元を見つめた。

一度踏み出せば、もう元には戻れない。


この夏を、彼女との関係を、ただの便利な依存で終わらせることはできないと、本能が警告していた。

私はゆっくりと靴を脱ぎ、彼女の手を取った。


繋いだ手のひらは、潮風に吹かれて少しだけベタついている。それでも、その密着した感覚が、今の私にとっては唯一の現実だった。

水に触れた瞬間、心臓が跳ねるような冷たさが全身を駆け抜けた。


「……つめたい」


「でしょ? 」


恵比寿は私の手を引いたまま、海に向かって一歩、また一歩と進んでいく。

膝の下まで水に浸かったところで、彼女は足を止めた。波が寄せるたびに、私たちの影が水面で歪み、混ざり合っていく。


「ねえ、衣。私、学校に戻りたくないな」


彼女は海を見つめたまま、独り言のように呟いた。


「また『寿恵比寿』っていう仮面を被って、みんなの前で笑わなきゃいけない。衣を独占できなくなる。それが、たまらなく嫌なの」


彼女の告白は、潮騒に溶けてしまいそうなほど微かなものだった。私は、繋いだ手に力を込める。

彼女が外で見せている輝きが、どれほどの無理の上に成り立っているのか。

それを知っているのは、世界中で私一人だけでいい。


「……学校でも、私は恵比寿の隣にいる」


「でも、みんなが見てるよ」


「……見せつけておけばいい。恵比寿は、私のものだって」


自分の口から出た言葉の強さに、私自身が驚いた。

人見知りで、他人の視線から逃げることしか考えていなかった私が、彼女を守るために世界を敵に回そうとしている。


恵比寿が、ゆっくりとこちらを振り返った。

その瞳には、驚きと、それ以上の深い愛しさが溢れている。彼女は私の胸元に顔を寄せ、小さな声で、けれどはっきりと囁いた。


「……衣、もう隠れ蓑なんていらないね」


その通りだった。

私はもう、自分を守るための布など求めていない。

ただ、目の前のこの熱を持った存在を失いたくないだけだ。


遠くで、夏の終わりを告げるような汽笛が鳴った。

私たちは、寄せては返す波の中で、いつまでも立ち尽くしていた。境界線は、もう砂の上に描かれた文字のように、波に攫われて消えていた。


「……帰ろうか」


「うん。私たちの場所に」


私たちは再び靴を履き、駅へと向かう坂道を登り始めた。後ろを振り返ることはしなかった。

私たちの前には、秋へと続く新しい道が夕陽に照らされてどこまでも伸びている。


戌亥衣という名前に込められた意味は、もう変わった。私は、誰かを隠すための衣ではなく、大切な人を包み込み、温めるための衣になりたい。


隣で笑う海老のような彼女の、一生の居場所になるために。ホームに入ってきた電車の風が、私たちの髪を激しく揺らした。

繋いだ手は一度も離れることはなかった。

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