第9話 勉強会

外は、狂ったような蝉時雨に支配されていた。

窓の外でゆらゆらと立ち上る陽炎が、日常の境界線を曖昧に溶かしている。

私は設定温度を一段下げたエアコンの微風を浴びながら、机に広げた数学の問題集と睨み合っていた。


「あー、もうダメ。サインもコサインも、全部海に流れていっちゃった……」


背後のベッドから、力抜けた声が漏れる。

恵比寿は先ほどから、数学の公式を暗記する作業に飽き、私のベッドを占領して寝転んでいた。

彼女の長い足が、私の地味な色のカバーの上で所在なげに揺れている。


「……あと、五問。そこまで終わったら、休憩にしよう」


「衣は真面目だなぁ。私なんて、衣の顔を見てるだけで頭がいっぱいになっちゃうのに」


彼女の冗談とも本気ともつかない言葉を、私は背中で受け流す。ペンを走らせる音だけが、密室のような部屋に規則正しく響いた。

冷房の効いた部屋は、外の酷暑から切り離されたシェルターだ。


私たちはここに逃げ込み、夏休みの宿題という名目のもと、親公認で二人きりの時間を積み重ねている。彼女が私の部屋に来るようになってから、この空間の気圧は少しだけ変わった。


以前はただの「寝食を忘れるための箱」だった場所が、今は彼女の匂いや、彼女が持ち込んだ小さな雑貨の影で満たされている。


「ねえ、衣。ちょっとこっち来てよ」


恵比寿が甘えるような、少しだけ掠れた声を出す。

私は計算を区切ると、渋々椅子を回転させて彼女の方を向いた。彼女は仰向けになったまま、こちらをじっと見つめている。


アップにしていた髪は解かれ、枕の上に乱雑に広がっていた。その無防備な姿に、心臓の鼓動が不規則に早まる。彼女は自分の頬を手のひらで撫でながら、ぼそりと呟いた。


「なんか……暑くない?」


「……設定温度、二十四度。これ以上下げると、風邪を引く」


「そうじゃないよ。外側の話じゃなくて、もっと、こう……内側の方」


恵比寿は上半身をゆっくりと起こすと、ベッドの端に座る私ににじり寄ってきた。彼女の体温が、冷え切った部屋の中で際立って感じられる。


その瞳は、いつもの明るい陽射しを反射したような琥珀色ではなく、夕暮れ前の深い影を宿しているように見えた。


「……熱、あるの?」


私が手を伸ばそうとした瞬間、彼女に手首を掴まれた。驚くほど強く、逃がさないという意思を感じさせる力強さ。


「熱なら、あるよ。衣のせい。衣が、そんなにかっこいい顔で黙ってるから」


恵比寿は私の手首を掴んだまま、自分の額に私の手のひらを押し当てた。触れた肌は確かに熱い。

微熱のような、あるいはもっと深い場所から湧き上がるような、じっとりとした熱。

私は動くことができず、ただ彼女の呼吸を間近で感じるしかなかった。


「……恵比寿。近い」


「近くないよ。遠いよ。いくら隣にいても、衣の考えてること、私には半分もわからない。こうしてないと……怖くなるんだ。私、衣に必要とされてるんじゃなくて、ただの便利な『盾』だと思われてるんじゃないかって」


彼女の独白は、静かな部屋の空気を震わせた。

これまで彼女を隠れ蓑として利用してきた負い目が、鋭い痛みとなって胸を刺す。

私は自分の本当の気持ちを、言葉という形にするために喉を動かした。うまく機能しない発声器官を叱咤し、一文字ずつ、丁寧に。


「……最初は、そうだった。恵比寿がいれば、楽になれると思ってた。でも、今は……」


「今は?」


「……盾はいらない。恵比寿という……人間が、隣にいないと、嫌だ」


たどたどしい私の言葉を聞いて、恵比寿は目を見開いた。

彼女の目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。

彼女は私の手を離すと、そのまま私の首筋に顔を埋めた。


「……狡い。そんなこと言われたら、もう離れられないじゃん」


彼女の吐息が首元にかかり、全身に鳥肌が立つ。

私は逃げようとはせず、むしろ彼女の細い背中に、おずおずと両手を回した。

薄いシャツ越しに伝わる彼女の骨格。

生きているという実感。

外の蝉の声は、もう聞こえなかった。

私たちは、どちらかが壊れてしまいそうなほどの静寂の中で、互いの体温を確認し合った。


これは、友情と呼ぶにはあまりに重く、依存と呼ぶにはあまりに美しい。

冷房の風が私たちの熱を奪おうとするけれど、重なり合った場所から新しい熱が生まれてくる。


「……衣」


「なに」


「……好きだよ。衣の衣(ころも)になりたいくらい、好き」


変な告白。けれど、彼女らしいその言葉に、私は不意に笑みが溢れた。


「……それは、重すぎる」


「いいの。私は海老だから。衣に包まれてないと、生きていけないの」


彼女は顔を上げ、涙に濡れた瞳で私を射抜くように笑った。その笑顔は、これまでのどの陽キャな仮面よりも、ずっと本物の輝きを放っている。


私は彼女の額に、自分の額をそっと合わせた。

境界線は、もうどこにも存在しない。

閉ざされた部屋の午後。

私たちは、自分たちだけの夏を、ようやく本当の意味で始めたのだ。


勉強机の上、開いたままの数学の問題集が、虚しく風に揺れていた。

けれど、今の私たちにとって、解かなければならない難問は他に何もなかった。


「……休憩、終わり」


「えー! もっとこうしてようよ、衣ー」


彼女のいつもの甘え声が戻ってくる。

私は彼女を軽く突き放し、再び机に向かった。

ペンを持つ手は、先ほどよりもずっと軽く、確かな温かさを宿していた。外は相変わらずの酷暑だ。

けれど、この四角い部屋の中だけは、穏やかな海のように澄み渡っていた。

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