第8話 浴衣
夕闇が街を藍色に染め上げる頃、私は駅前の公衆トイレの鏡の前で、ひどく落ち着かない心地で立ち尽くしていた。
慣れない浴衣の帯が、肺を少しだけ圧迫している。恵比寿が強引に選んだのは、深い紺地に細い銀の筋が入った、極めてシンプルなものだった。
彼女曰く「衣の黒髪と切れ長の目を一番活かせるのは、こういう潔いデザインだよ」とのことだったけれど、今の私には、自分が借り物の中身を無理やり詰め込まれた標本のように思えてならない。
「衣! お待たせ!」
背後で扉が開き、風が舞い込む。
振り返った瞬間、私は言葉を失った。
そこにいたのは、いつもの制服姿とは似ても似つかない、一輪の大輪の花のような恵比寿だった。
淡い桃色の地に、白と水色の撫子が散らされた浴衣。アップにまとめられた髪からは、項が白く露出し、そこから漂う花の香りが私の鼻腔を掠めた。
「……似合ってる」
「えへへ、本当? 衣にそう言ってもらえるのが一番嬉しい。……衣も、やっぱり。私の目に狂いはなかったね」
恵比寿は私の周りをくるくると回り、満足げに頷いた。彼女の瞳が熱を帯びて私を射抜く。その視線に耐えきれず、私は鼻先まで浴衣の袖を上げた。
「……早く行こう。人が多くなる」
「そうだね。はぐれないようにしなきゃ」
彼女は当然のように、私の左手を自分の右手で掬い上げた。指を絡める。湿り気を帯びた夏の夜風が二人の間を吹き抜けていくけれど、繋いだ手のひらだけは、真空状態のように熱が逃げない。
神社へと続く参道は、提灯の明かりで琥珀色に照らされていた。ソースの焦げる匂い、型抜きの熱中する子供たちの声、遠くで響くお囃子の音。
すべてが騒がしく、私一人の力では到底太刀打ちできない情報の渦だった。けれど、隣に彼女がいる。
彼女が私の手を引いて人波を分け、時折振り返って「大丈夫?」と微笑んでくれる。
それだけで、この混沌とした世界が、私にとっては優しい物語の背景へと変わった。
「ねえ衣、あそこ! りんご飴買おうよ」
「……食べにくい、と思うけど」
「いいの。お祭りだもん。そういう『不自由』を楽しむのが粋なんだよ?」
恵比寿は、私の意見などお構いなしに、赤く艶やかな飴を二つ買い求めた。私たちは人混みを避け、少し離れた境内の裏手にある石段に腰を下ろした。
木々の隙間から、祭りの明かりが星屑のように瞬いている。
「……衣」
不意に名前を呼ばれ、私は飴を口から離した。
恵比寿は自分のりんご飴を膝の上に置き、じっと私の横顔を見つめていた。
「どうしたの」
「……今日、衣が浴衣着てきてくれたの、本当はびっくりしたんだ。私の我儘に付き合ってくれるとは思ってたけど……。私のために、頑張ってくれたんだよね?」
彼女の声は、祭りの喧騒を吸い込んだように低く、甘かった。
私は視線を彷徨わせ、結局、足元の影に落とした。
「……頑張ったなんて、そんな大袈裟なものじゃない。……恵比寿が、見たいって、言ったから」
「そっか。……嬉しいな」
恵比寿が私の肩に頭を預けてきた。
まとめられた髪からこぼれた数本の毛先が、私の首筋をくすぐる。石段の冷たさと、彼女の体温。
遠くで一発、空を割るような乾いた音が響いた。
「あ、始まった!」
恵比寿が顔を上げる。
同時に、夜空には巨大な光の輪が咲き誇った。
赤、青、金。
激しい光が降ってきて、私たちの肌を、浴衣を、そして互いの瞳を鮮烈に塗りつぶしていく。
光が消えるたびに、残像が網膜に焼き付く。
その一瞬の闇の中で、恵比寿の顔が私に近づいた。
「衣……」
名前を呼ぶ唇が、私の耳元に触れる。
花火の爆音にかき消されて、彼女の言葉は断片的にしか聞こえなかった。
彼女が何を言おうとしているのか、繋いだ手の震えがすべてを教えてくれた。
私は、彼女を隠れ蓑にしていた。
彼女もまた、私を隠れ家にしていた。
けれど、今、この光の下で、私たちはどちらでもなかった。ただの、名前のない二人の少女として、同じ光を見上げている。
「……来年も、一緒に見よう」
私の口から漏れた言葉に、恵比寿は泣きそうな顔で微笑み、より一層強く私の手を握り返した。
夜空に最後の大玉が打ち上がり、黄金色の柳がしだれるように消えていく。その余韻の中で、私は初めて、自分を包むこの衣が、彼女への想いでできていることに気づいた。
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