第7話 青い約束
一学期の終業式を数日後に控え、校内はどこか浮足立った空気に包まれていた。
湿り気を帯びた六月の雨の季節は過ぎ、今はただ、容赦ない真夏の陽光が窓ガラスを白く焼き、教室の隅々まで熱を届けている。
休み時間。騒がしい教室の喧騒から逃れるように、私は窓の外を眺めていた。
校庭では運動部の掛け声が響き、遠くの入道雲が山際から顔を出している。
「衣。また、どっか遠くに行こうとしてたでしょ」
耳元でくすぐったい声がして、肩に柔らかな重みが加わった。恵比寿が後ろから抱きつくようにして、私の肩に顎を乗せている。
以前の私なら、この距離感に狼狽えて逃げ出していたはずだ。けれど今は、彼女の体温が背中に伝わってくることに、微かな安堵さえ覚えていた。
「……別に。空を見てただけ」
「ふーん。私のことより空の方が大事なんだ?」
「……そんなこと、言ってない」
私が少しだけ語気を弱めると、恵比寿は満足げに喉を鳴らした。彼女は、私の隣に椅子を引き寄せ、机の上に突っ伏すようにして私を見上げてきた。
窓から差し込む光が、彼女の茶色い瞳を琥珀色に透かしている。
「ねえ、もうすぐ夏休みだね。衣、予定は?」
「……特には。本を読むくらい」
「もったいない! 夏だよ? 海とか、お祭りとか、花火とか。やりたいこと、いっぱいあるのに」
恵比寿は指を折り数えながら、楽しそうに夢想を広げていく。彼女が語る夏は、いつも映画のワンシーンのように鮮やかだ。
一方で、私の夏はいつも、冷房の効いた部屋で文字の海に沈む、静かな青一色だった。
「……恵比寿は、忙しいんでしょ。友達、多いし」
何気なく口にした言葉だったけれど、それは自分でも気づかないほど、小さな棘を含んでいたのかもしれない。
恵比寿は一瞬だけ瞬きをすると、ふっと視線を落とした。
「……誘いは、たくさんあるよ。でもね、衣と一緒じゃないと意味ないんだ。私にとっての夏休みは、衣の時間を独占するための期間なんだから」
冗談めかした口調の中に、図書室で見せたあの太陽の裏側の熱が混じっている。彼女は机の下で、私の制服のスカートを指先で小さく摘んだ。
「……私の部屋に、来ればいい」
「え?」
「……家なら、日焼けもしない。恵比寿が飽きるまで、一緒にいられる」
自分からこんな提案をするなんて、数ヶ月前の私が見たら驚愕するだろう。けれど、今の私は知っている。彼女が求めているのは、大勢で騒ぐ喧騒ではなく、ただ私と共有する静寂なのだということを。
恵比寿の顔が、ぱあっと輝いた。
それはどんな花火よりも眩しく、私の胸の奥を焦がす。
「約束だよ! じゃあさ、一日だけ……一日だけでいいから、お祭りにも行かない? 浴衣着てさ。衣の浴衣姿、絶対にかっこいいと思うんだ」
「……浴衣。持ってない」
「私が選んであげる! 私、衣に似合うやつ、もう頭の中でコーディネートできてるもん」
彼女はそう言って、私の手を握りしめた。
熱を帯びた教室の中で、繋いだ手のひらだけが、より濃密な温度を持って溶け合う。
「……恵比寿。暑い」
「あはは、そうだね。でも、離さないよ」
彼女は悪戯っぽく笑い、さらに力を込めて握り返してきた。窓の外では、気が早い蝉が一鳴きして、また静まり返った。
夏が来る。
これまでの私にとっては、ただやり過ごすだけの長い空白だった季節。
けれど、彼女という光が射し込む今年の夏は、きっと忘れられない、鮮やかな青に染まる。
「衣……大好きだよ」
囁かれた声は、誰にも聞こえないほどの小さな音だったけれど。私の耳の奥には、どんな雷鳴よりも大きく、優しく響き渡っていた。
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