第6話 領域

自分の部屋に他人を招き入れるという行為が、これほどまでに心臓を急かすものだとは思わなかった。

私の部屋は、私の内面そのものだ。


色味の乏しいカーテン、壁際を埋める文庫本の背表紙、そして最低限の家具。

他人の視線を意識して飾られたものは一つもなく、そこには剥き出しの『戌亥衣』が転がっている。


「お邪魔しまーす! ……わあ、なんか衣の匂いがする」


背後で玄関の扉が閉まる音がして、恵比寿の弾んだ声が狭い廊下に響いた。彼女が足を踏み入れた瞬間、モノトーンだった私の生活空間に、鮮やかな原色がぶち撒けられたような錯覚に陥る。


「……変な匂いは、しないはず」


「あはは、違うよ。落ち着く匂いってこと。紙と、少しだけ冷たい空気の匂い」


恵比寿は遠慮がちに私の部屋を見渡し、それから窓際の小さな座椅子にちょこんと腰を下ろした。

手には、昨日約束した通り、小さな手提げ袋が握られている。


「はい、これ。昨日言ってたパウンドケーキ。お母さんに手伝ってもらっちゃったけど」


「……ありがとう。お茶、淹れてくる」


逃げるようにキッチンへ向かい、湯を沸かす。

茶葉がひらくのを待つ数分間が、永遠のように長く感じられた。

リビングからは、彼女が私の本棚を眺めている気配が伝わってくる。

私の思考の断片を、彼女の指先がなぞっている。そう思うだけで、背中のあたりがむず痒くなった。

盆に乗せて部屋に戻ると、恵比寿は一冊の詩集を手に取っていた。


「衣、これ……付箋がいっぱい貼ってあるね」


それは、私が特に言葉に詰まった夜、何度も読み返した本だった。


「……気に入ったフレーズを、忘れないようにしてるだけ」


「へえ……『沈黙は、拒絶ではなく、最も深い肯定である』。……かっこいいね、これ。衣みたい」


恵比寿はそう言って、本を閉じて私に微笑みかけた。彼女の笑顔はいつも通り明るいけれど、この狭い空間では、その光が壁に反射して、逃げ場のない熱となって私に降り注ぐ。


私たちは小さなローテーブルを挟んで向かい合い、彼女が焼いてきたケーキを食べた。

レモンの皮が混ぜ込まれた生地は、爽やかで、けれどどこか切ない甘さがした。


「おいしい……」


「本当? よかったぁ。

衣の口に合わなかったらどうしようって、昨日の夜からずっと考えてたんだから」


彼女は自分の頬を手のひらで包み、ふぅと息を吐いた。窓の外は、夕暮れ時特有の紫色の闇が静かに降りてきている。

部屋の明かりを点けていないせいで、二人の距離は実際よりもずっと近く感じられた。


「……恵比寿」


「ん?」


「私、ここに来られるの、嫌じゃなかった。

……むしろ、少しだけ楽しみだった」


絞り出すような私の言葉に、恵比寿が動きを止めた。

彼女の大きな瞳が、暗がりの中で潤んで見える。


「……衣、そういうこと不意打ちで言うの、ずるいよ」


「……本当のこと、言っただけ」


彼女はゆっくりと手を伸ばし、テーブルの上に置かれた私の手に自分の手を重ねた。

昨日の雨宿りや、図書室での感触とは違う。

ここは、私の領域。私のプライベートな聖域。

そこで触れ合う手のひらは、より密接に、互いの体温を交換し合っていた。


「ねえ、衣。隠れ蓑とか、隠れ家とか、そういうの全部抜きにして……」


恵比寿の声が、微かに震える。


「私は、衣のことが大好きだよ。

クールな衣も、喋るのが苦手な衣も、私の知らない言葉をたくさん知ってる衣も」


彼女の指が、私の指の間に滑り込んでくる。

恋人同士がするように、指と指を絡める恋人繋ぎ。

その強烈な意味を自覚した瞬間、私の視界は白く染まりそうになった。


「……いいの? 私、何も返せないよ」


「返してくれてるよ。今も、こうして手を離さないでいてくれる。それが、私にとっては一番の答えだもん」


恵比寿は座椅子から滑り落ちるようにして床に膝をつき、私の膝に顔を埋めた。

彼女の柔らかい髪が、私の太ももに触れる。


ポニーテールを解いた彼女の髪は、夜の帳のように滑らかで、甘いシャンプーの香りが部屋中に満ちていった。私は、空いている方の手を、おずおずと彼女の頭に乗せた。


「……恵比寿」


「このまま、少しだけ……。衣の音を聴かせて」


彼女の耳が、私の膝越しに私の鼓動を拾っている。

早まる拍動。

隠れ蓑の下で震えていた本当の私が今、彼女の熱によって、ゆっくりと外側に引きずり出されていく。


境界線は、もうどこにもなかった。

私の秘密も、彼女の孤独も、この暗い部屋の中で一つに溶け合っていく。

外では、遠くで一番星が輝き始めていた。

私たちはそのまま、夜が深く静まり返るまで、言葉のない対話を続けていた。

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